恩人依存症・八

 くしゅんとくしゃみが聞こえた。
 未来は笑った。
 クリスの背を二三度を叩いて、
「帰ろっか、クリス」
 と言った。言った瞬間、――ああ、言ってしまった、と未来は思った。自分からは言い出すまいとしていたことを言ってしまった。それがみょうにおかしくて、未来は笑った。しかし、もう遅い。未来はクリスより先に「帰ろう」とはっきりと言ってしまったのだ。
「うん」
 と言って、クリスはすんと鼻を鳴らした。
 未来の腕の中から抜け出して、ゆらりと立ち上がる。
「帰ろう」
 とかすれた声で言った。
 散々に泣きはらして、気がすんだかと言えば、そうでもない。眉宇は暗い陰翳に沈んでいる。
「帰りたい?」
 未来はゆったりと腰を上げながら言った。
 クリスがふしぎそうな目で見てきた。
「お前が帰ろうって言ったんじゃあないか」
「そうなんだけど」
 くしゃみが聞こえなければ、未来は帰ろうとは言わなかっただろう。このままでは風邪を引いてしまうかもしれないと思うと、つい自分の依怙地をひっこめて、そう言ってしまったにすぎない。
「クリスが帰りたくないなら、それでもいいし」
 未来がそう言うと、クリスはうつむいた。
「帰りたくない」
 とクリスは言ってから、顎をあげて、未来に背を向け、桟橋のある湖のほうに目をやった。
「でも、べつに、つきあってくれなくても……」
 おそるおそるといった感じに、クリスは体をすこしひねって、肩越しに未来をのぞき見た。先に帰れ、とは言えない、これはクリスの甘えだ。彼女はひとりでここにいつづけたいわけではないのだ。
 未来はクリスのとなりに立って、フードの上から彼女の頭をわしゃわしゃと掻き乱した。いまさらなことだが、未来のこうしたクリスへの態度は、あきらかに年上の人間に対するものではない。同じことを響がやればクリスは怒っただろう。が、響に先輩風を吹かせたがるクリスは、その響と同い年の未来にはおおむね従順だった。今もおとなしくされるがままでいる。
 やはりクリスの中で、未来の立場は特殊な位置にあるのだろう。その場所には、かつてフィーネが立っていた。
 未来の手からクリスの頭が離れた。
 クリスはふらふらとおぼつかない足どりで、桟橋のある方向に歩いていく。
 未来は後ろをついていった。
 風がまた吹いてきた。
 クリスのフードが頭から剥がれた。
 なんとはなしに未来もフードを取った。
 雪がななめに落ちてくるようになった。雪の量はさっきより落ち着いている。
 たまに瞼と頬にはりつく雪を払い落しながら、未来はクリスのあとを追う。
 無言で歩くクリスの背に話しかけてみようかどうかを迷っているうちに、桟橋の手前に到着した。
 雪が湖に落ちて消えている。その水の一面だけはまったく化粧されていない。桟橋にはうっすらと積もっている。
 クリスが気にせず雪の桟橋を進もうとするのを、未来は思わず腕を掴んでとめた。雪のあるなしに関わらず、今のクリスが桟橋を歩くのはいかにもあぶなっかしいように思われた。
「あぶないよ、クリス。落ちたらたいへんなことになる」
 クリスは振り返らない。まばたきもせずに、まっすぐ桟橋の先を見ている。
「うん、たいへんなことになった」
 あっけらかんと言うものだから、未来は驚いた。
「落ちたことあるの?」
「ある」
「雪で滑って?」
 クリスは首を振った。
「魚見てたら、落ちたんだ」
 今とは正反対の、たしか初夏の日射しの強い日だった。
 すぐに橋の脚に掴まったが、そこから這い上がるのにけっこうな時間を喰った。濡れ鼠になって邸内に戻って来たクリスに、フィーネが呆れ果てた顔でバスタオルを投げつけた。邸の窓からクリスが桟橋から落ちるのを見ていたらしかった。その時はそれほど怒っているふうではなかった。
 風呂に入るようにフィーネに言われたクリスは、びしょ濡れの服を脱いで、湯を張り、そこに浸かって、湖水でひえた体をあたためていたのだが、数回あくびをしてから、そのまま浴槽にもたれかかって、眠ってしまった。
 目が覚めた時は自分のベッドの上だった。
「一日に二度も溺れ死に損なう愚劣者がいる」
 横たわる裸体に降りかかってきたのは、そんな声だった。
 フィーネは、眉間にしわをつくり、頬を歪ませ、唇の隙間から白い歯を軋ませていた。
 あきらかにフィーネは怒っていた。
 クリスはあわてて体を起こし、謝罪の言葉をさがした。それより先に、フィーネの平手がクリスの頬をぶった。
「ぐずは嫌いなのよ」
 と唾棄するようにフィーネは言った。
 クリスはこの時、フィーネに言い付けられていたソロモンの杖の起動をまだ成功させていなかった。最初はのんびり構えていたフィーネもしだいに苛立ちを募らせ、しかめ面をクリスに見せるようになった。そんなさなかにこの無様があった。
 クリスの眉間は恐怖で青ざめた。フィーネの暴力にではなく、フィーネに嫌いと言われたことに恐怖した。
 クリスはかつてフィーネから愛情を感じたことなど一度もなかった。クリスのほうもフィーネに親しみを湧かしようもなくはっきりと嫌っていた。なのに、嫌いだと言われた瞬間、クリスはフィーネに嫌われたくない一心で、彼女に取り縋り泣き縋った。
 ――ごめんなさい、もっとがんばるから、もっとちゃんとするから、見捨てないで、嫌いにならないで。……
 みっともなく喚き散らした当時の言葉を、クリスは記憶から拾い上げて、白い息と一緒に吐いた。
「なんでだろう」
 クリスは言った。
「殴られるのはいつものことだから気にならなかったんだけど、嫌われるのだけは、なんでか、どうしても、いやだったんだ。好かれたことなんてそもそもなかったのに」
 クリスの言ういつものこと≠ヘ、フィーネとの同棲時代に限ったものではなく、両親の惨死以来ずっとつづいてきたことだった。そのいつものこと≠ェ終わったのは、おそろしく最近の話だ。
「ストックホルム症候群っていうんだってな、こういうの」
「え――」
 クリスの口から急に飛び出してきた意外な言葉に、未来は驚き目を見開いた。
「こないだテレビでやってた」
「それは、……」
 未来は返答に詰まった。そのとおりだとも違うとも未来には言えない。
 拉致され、監禁され、虐待された。愛情の抱きようのない相手に、二年の共同生活のなかで抱いた強烈な愛情は、自己防衛のために自分で自分を洗脳した結果にすぎない。クリスが突然発した言葉はそういう冷淡さをもっている。
「本気でそう思ってるの」
 と未来は言った。
「思ってないけど、そういうことに、なっちゃうんだろう」
 とクリスは言ってから、いぶかしげに眉をひそめた。
「お前、なんか、怒ってないか?」
「かもしれない」
 と未来は答えた。言ってみて、未来は、なるほど自分は今怒っていると思った。
「ごめん」
 クリスは謝った。それから、ああ、と苦しげに呻いた。
 呻きのあとに沈黙があった。
 未来はその長い沈黙を一言も発せずに耐えた。
 しばらくするとクリスは両手で頭をかかえて、フィーネ、フィーネと、うわごとのようにその名を繰り返し呼んだ。
「フィーネ、なんで、ああ、なんで、お前、あたしのこと攫ったりしたんだ。――いや、知ってる、知ってるんだ。理由なんてわかりきってるんだ。だけど、フィーネがあたしのこと攫わなかったら、もっと普通に、違う、違う、もっとちゃんと、仲良くなれたかもしれなかったのに」
 そうしてクリスは、涸れることの知らない涙をふたたび流しはじめた。

 クリスがようやく泣きやむと、未来の手を握ってきた。未来はクリスの手を引いてフィーネの邸を離れた。
 どちらが「帰ろう」と言いだすでもなく、ふたりは帰路を辿った。
 クリスは途中何度も半端に溶けて凍った雪に足をとられて、しりもちをついた。一度地べたにへたりこむと、クリスはなかなか立ち上がらなかった。フィーネへの未練がそうさせているのだろうと未来は思った。
 未来はむりにクリスを立たせるようなことはせず、クリスが自分から立ち上がるのを待った。
 弦十郎の邸に着く頃には、昼食どきをとうに過ぎていた。
 ふたりは昼食をあとまわしにして、ひとまずは凍えきって疲れきった体をどうにかしようと風呂を使った。
 ぬるめの湯をかけて、徐々に体をあたためていった。
 湯船に浸かる。
 じゅうぶんに体を慣らしたつもりだったし、温度もそれほど高く設定していないはずなのに、それでもまだすこし、ひりひりと余分に熱く感じられた。
 あいかわらずクリスはこの広い湯船を広くつかおうとせずに、未来のほうにくっついてくる。首をかたむけて、未来の肩に乗せた。その頭がずるりと落ちそうになることがあるので、そのつど未来は手を差し出して、また自分の肩に乗せた。
「眠いの?」
 と未来は訊いたが、返事はなかった。訊いた未来も眠くなってきた。これでふたり揃って風呂場で溺れ死にでもしたら、愚劣どころの話ではないだろう。
 それにしても、
「ねむ……」
 未来はあくびをかみころした。膝を立たせて、その上に両腕を乗せ、顎を置く。唇がすこし湯に浸かった。
 クリスは未来の肩に頭をくっつけたまま、未来の体がゆれた分だけ自分の体もつられてゆらしたが、自分から姿勢をうごかすようなことは全然なかった。たぶんもう眠っているのだろうと未来は思った。
 湯船の温度に慣れてきた感じがする。
 未来は頭の中で数を数えはじめた。
 できるだけゆっくりと数を刻んでいった。
 百まで数えたら風呂を出ようと思っていたが、眠っているクリスをなんとなく起こしたくなくて、その時が来るのを、ちょっとでも先延ばしにしようとしたためだった。
 三十を過ぎたあたりから数える声が口にもれだした。湯が口の中に入ってくるので、未来は腕から顎を離して、天井に目を向け、声は出さないように、唇だけうごかして、つづきを数えていった。
 ――九十七、九十八、九十九、百、……
 百一、百二、と未来は唇をうごかして、ゆるゆると首を振った。
「クリス、出るよ。のぼせちゃう」
 未来はクリスの体をゆすった。
「ん……」
 クリスの頭が未来の肩から離れた。
「寝てた?」
「どうだっけ」
 クリスは傾けていた体を起こし、ぼんやりとした目をひらいた。
 未来はクリスの顔を観察した。泣いてはいないようだった。目が赤いのも頬がはれぼったいのも風呂に入る前からだ。
 湯船を出て、かるく体を流した。クリスの頭から湯をかけてやると犬みたいに体をふるわせて湯を飛ばした。脱衣場で体を拭き、着替えて、居間に行った。
 未来はこたつの電源を入れて、
「お昼どうする? なにか食べる?」
「腹へった」
 とクリスは言った。
「じゃあ、なにか用意してくるから、待ってて」
「うん」
 こたつにクリスだけが入った。
 未来は台所に向かった。インスタント類は全滅だった。にゅうめんを一人前半茹でて居間に持っていった。
「これだけ?」
「しっかり食べちゃうと夕飯入らなくなるから」
「ふうん。それもそうか」
 両手に箸を挟んで「いただきます」とクリスは言った。
 碗に分け取って、麺をすする。つゆが濃すぎたかもしれないと未来は思った。クリスはいつもどおり食べるのがへたくそだった。
「明日、始業式どうする?」
「行かない」
 とクリスは、はっきりと言った。フィーネの邸ではまだ迷っているようなことを言っていたが、ここでのクリスはそう断言した。
 三学期ずっと行かないとなると、さすがに原級留置になるだろう。そうなればクリスは未来と同じ学年になる。
 考えてみればクリスは小学校の半分以上と中学校の三年間まるごと、全然通っていなかったのだ。年齢どおりにいきなり高校二年生から始めるのがどだいむりな話だったのかもしれない。もう一学年やりなおすのも悪くない気がした。春から復学する気がクリスにあるかどうかはわからないが。
 そう思いつつ、せっかくできたクラスの友人と学年が別になってしまうのも、あわれなようなもったいないような気が未来はした。
 ――やっぱりあの人たちと一緒に進級したほうが、いい。
 と未来は、二学期の終業式にクリスが教室に残したままの荷物を邸まで持って来てくれた、クリスの三人の友達の顔を思い出しながら、そう考えた。
 いつか麺はすっかりなくなっていた。
「行かない理由、訊いていい?」
 未来は食器を盆の上にかたづけ、クリスが飛び散らせたつゆを布巾で拭いた。
「いいけど、言った理由であってるかどうか、自分でもわからない」
 とクリスは言った。
「行ったほうがいいって思ってる。あいつらに会いたいし」
 フィーネとは全然関係のない心情の吐露を、未来はひさしぶりに聞いた気がした。
「会いたいなら、会ったほうがいいに決まってるんだ。会えるんだから」
 自分に言って聞かせるような言い方だった。
「でも」
 クリスはそう言うと、泣きそうな顔をつくって、それをぐっと堪えるように、一度口をつぐんだ。壁の時計の秒針が一回りした頃、
「会いたくない。だから行きたくない」
 とクリスは重い息を吐き出しながら言った。
「傷を見られたくない?」
 と未来は訊いてみた。
「たぶん」
 とクリスは答えた。
「けどそれって、あいつらに心配かけたくないからじゃ、ないと、思う」
 クリスの言葉を、未来は頭の中で咀嚼した。クリスが言わんとしていることはなんとなくわかる。せっかくできた友達にリストカットのことを知られて、嫌われたり気味悪がられたりするのが怖いのだろう。未来がそれを言うと、クリスはうなずいて、また、
「たぶん」
 と言った。傷を隠せばそれですむことでもない。気の持ちようがそうならないのだから、いくら隠しても意味もないことだ。あばかれるかもしれないという怯えが目に出てしまえば、相手の態度も変わってくる。
「でも、私や響には見せても平気なんだよね」
「平気じゃないけど、いまさらだからな」
 それはすこし未来には意外だったが、ちょっと考えてから、
「まあ、そうよね。……」
 と言って、未来は盆を持って台所に行った。
 未来や響と違って、クラスの友達はクリスの陰惨な過去を知らない。正体不明の傷にまみれた体を、いたわるのではなく異様なものとして拒んだところで、それはいたって普通の感覚だろう。しかし、クリスは彼女たちに拒まれたいわけではない。受け入れられるかどうかわからないのであれば、隠しておきたいと思うのも、やはり普通の感覚だろう。
 未来にしたって、自分と響の過去を創世たちにはすこしも話していない。またその必要も感じない。事件当時あの三人が被害者をどう見ていたのか、事実はどうあっても未来は聞きたくも知りたくもないと思っている。だからそれは、あえて触れる必要も触れさせる必要もないことだ。
 未来が食器を洗って居間に戻って来た時、クリスは舟を漕いでいた。
「クリス――」
 呼んでみると、舟漕ぎがとまって、うつらうつらとした目が、ゆっくりとこちらを向いてきた。
 さてこれからどうしようかと未来は思った。
 いつもならそのまま夕飯の時間まで寝かしつけてしまうところだ。それでなくても今日は歩きまわって、長時間を雪の中で過ごして、体は疲れている。眠気もいつもより強いだろう。
 未来はふっと息を吐いた。口もとをゆるめる。
 ――なにが、おかしい。
 クリスの目がそう言っている。
 未来はクリスのとなりにもぐりこみ、
「お話しましょう?」
 と言って、こたつの中にあるクリスの手を取った。

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