恩人依存症・十一

 まあそんなところだろうと、なんとなく想像はしていたのだ。
 あまりに想像どおりすぎて見事だと呆れただけの話だ。
 未来が落としたその溜息は、こたつで眠りこけるクリスには聞こえない。
 両手をひろげてあおむけになって眠っている。未来の帰宅を待っているうちに、正体無く眠り落ちたというより、眠くなったから寝たくて寝たといった感じだった。どちらにしろ、眠っていることには違いない。昨日の疲れもあるのだろう。なにしろずっと雪の中にいた。未来にも睡魔はないが疲労はある。だから起きて帰りを待っていなかったことを、とやかく言うつもりはない。が、眠っていられては困る、と思う。
 こたつの上にカッターナイフが置かれていることに気づいた。刃は出ていない。手首に今日できたようなあたらしい傷もない。留守中のクリスが、ここで、なにをしていたのか、未来にはわかりようもない。問い質せば答えは返ってくるだろう。
 クリスのよこに膝をついて、肩をゆすった。眠っているならそのまま眠らせておこうという気は未来にはない。肩をゆすりながら、何度か名前を呼ぶ。
 ほどなくクリスが目を覚ました。
「あー……」
 おかしな声をあげて、クリスは未来の存在に気づいた。
「ただいま」
「んん、おかえり」
 クリスは緩慢な動作で体を起こし、おおきくのびをした。
 未来の見たところ、クリスの気色はそうわるくない。ただ、目のまわりに涙の跡があった。目もすこし赤かった。また夢を見たようだった。フィーネか、マリアか、あるいは両親の夢だ。
 諸々のことをあとまわしにして、未来はまず五代のことを話した。
 クリスは未来の口から五代の名が出たことに、最初驚いて目を見ひらいたが、やがてその目をほそめ、はにかみながら、そうか、そうか、とくりかえしうなずいた。
「首疲れるだろ、あいつ」
 とクリスは首筋をなでながら言った。五代はかなりの長身なので、彼女と立ち話をしていると、自然と顎をもちあげるかっこうになり、首が疲れるというのである。
「そんなに長いこと話してないから」
 未来は首を振った。
 クリスは、また、そうか、とうなずいた。
 こくり、こくり、とクリスは目をつむり、眠るようにうなずく。本当に眠ってしまいそうだと未来は思った。が、ひらかれたクリスのすこし赤くなっている目は、さえざえとしている。
「夢、見たのよね。どんな夢だったの」
 と未来は言った。
「ん……」
 クリスはちょっと考えこむようにうつむいてから、
「いつもとおなじだよ。いつもどおりフィーネが出てきた。フィーネのふりをしたマリアだ」
 と言った。
「それ以外は、なにか、見た?」
「なにも」
 クリスはこたつの上のカッターナイフを手に取った。
「夢くらい自由に見たいのに、うまくいかないもんだな」
 カチ、と刃の出る音がする。クリスはそのまま親指の爪ほどの長さまで刃を出し、掌のまんなかに先端を立てた。ほんのすこし掌に刃がしずんだ。まもなく刃が離れた。赤いちいさなくぼみができていた。血は出ていない。クリスは刃をしまい、カッターナイフを置いた。
 その一連の動作を未来はじっと見ている。
 もしかしたら、クリスは今笑っているのだろうか。目もとにも口もとにもそれらしいものは見えない。しかし未来は、クリスが笑っているような気がした。そのように見えたのだ。

 外では音のない雪が降っている。ごうごうとはげしい音をたてていた朝方の雪ではない。あるいはすべての音を消し去る雪である。とにかく家の外も内も静かだった。
「雪、やまないね」
 未来は外のほうに目をやって言った。
「そうだな、やまない」
 クリスは言った。
「庭に出てみる?」
「どうしてだ?」
 クリスは首をかしげたが、そのあと未来の言いたいことがわかったのだろう、くちびるの端をあげてくっと笑った。未来は昨日のことを言っているのだ。
「あんなのは、もう、やらないよ。悪かったな、へんなことにつきあわせて」
 未来は、気にしてない、と言おうとして、それをやめ、
「私も、二度は遠慮したい」
 と言った。
「しない、しない」
 クリスは笑いながら言った。
「でも、未練は、やっぱり、まだ、ある」
 とも言った。
「フィーネはもういないのにな……」
 そう言ってまた笑った。かなしい笑みだった。
 あの高台の邸にフィーネはいない。しかし、クリスがフィーネとともに過ごした事実がある。思い出もある。そこにフィーネを求めたくなる消しがたい感情を、あるいは執着を、クリスは正直に言った。
 クリスの口から溜息が漏れる。自分に呆れているのである。が、この執着をクリスは否定したくなかった。消し去りたくなかった。この先の自分の人生であっても、フィーネの存在はもはやクリスの中からどうしようもなく抜きがたいものがあった。そういう在り方を、それでもクリスは呆れるしかなかった。執着することそのものが、どだい、どうしようもないことなのに、と。
 クリスはまたカッターナイフを手に取った。
「これ、返すよ」
 と言って、未来に差し出した。
「もう使わないの?」
 未来はちょっと驚いて、すぐには受け取れなかった。
「うん。――いや……、違う。使うかもしれない。うん、使うことがあると思う。そうだ、預ける。預かっててほしい。使いたくなったら、その時に、返してくれって、頼むから、さ」
 クリスはあれこれと考えながら、しゃべりながら整理して、そう言った。
「わかった」
 未来は恭しい手つきでカッターナイフを預かった。
 あまり詮索する気にはならなかったが、ひとつ、どうしても確認しておかないといけないことがあると思い、未来はそれをクリスに訊いた。
「ここに、カッターを置いて、なにをしていたの? なにもしてなかったとして……なにをしようと考えていたの?」
 クリスは指を二本立てて、首に滑らせた。
 未来は思わず瞠目した。
 はあと大きく息を吐いたあと、
「大事ね」
 と言った。
「ああ、大事だ」
「どれくらい本気で?」
「どれくらいかな」
 クリスは口もとをゆるめながら首をかたむけた。
「わかんねえや」
 髪を掻いて言った。その言葉に未来は嘘を感じなかった。
「いっそ死んだら会えるかと思ったけど、会えないって、すぐ気づいたから」
 それから、もう夢でもかまわないからフィーネに会いたいと思い、横になった。しかし夢に出て来たのは、あいかわらずのマリアだった。
「フィーネさんは、やさしかった?」
 以前した質問と同じ質問をした。
「全然、やさしくなかった」
 クリスも同じ返答をした。
「じゃあ、やさしくしてほしかった」
「そうだな。ああ、そうに違いない。だから、マリアが出てくるんだろうな、いつも、いつも」
 クリスは口もとの笑みをおさめないまま、うつむいた。
 しばらくして、すすり泣く声が聞こえはじめた。

 ひとしきり泣いたあと、顔をあげたクリスの目が赤かった。
 ずるずると鼻をすすると、クリスはにこりと笑った。
「なにか、いいことあったの?」
 さっきまで目の前で泣いていた人間に、未来はそんなことを訊いた。
「あったこと、思い出した」
「どんなこと?」
「内緒、だ!」
 クリスは人さし指を立てて今度は唇に当てた。
 めずらしい、と未来は思った。よほどのことでないかぎり、未来の問いにはクリスは素直に答える。よほど、のことを思い出したということだろう。
 クリスはこたつから出て立ち上がった。
「どうしたの」
「電話」
 クリスは言った。
「部屋に置きっぱなしだから取りに行く」
 ついてこなくていいよ、と言って、クリスは居間を出た。
 クリスはなかなか戻って来なかった。
 未来は居間を出て、クリスをさがした。自室にはいなかった。
 しばらく邸内を歩いていると、離れのほうにクリスの姿を見つけた。
 クリスは笑っていた。どうやら誰かと電話をしているらしい。
 見つからないようにこそこそと近づいて耳をそばだたせた。
 ――五代。
 その名がクリスの口から出てきた。通話相手は五代らしい。
(へえ……)
 未来は感心した。クリスは平生ひとの名を呼ぶことがない。たいてい、お前、か、あんた、で済ませる。さもなければ、オッサン、バカ、である。
「明日は――かもしれない――できれば――」
 ――明日。
 途切れ途切れの話し声からその単語を拾い上げた未来は、そっとその場を離れた。
 雪はもうすっかりやんでいる。
 居間に戻り、こたつに入って、テレビをつける。
 ちょうど天気予報が流れていた。
 どうやら明日は、晴れらしい。

第10話に戻る

[このページの先頭に戻る] [シンフォギアSSのTOPに戻る] [サイトのTOPに戻る]