美波は女性の叫び声に目を覚ました。
それは絹を裂くような、というにはだいぶん語弊のある、がらがらと嗄れた低い声だった。が、とにかく女性の叫び声であることにまちがいない。
そんな理由で目を覚ますことも人生そうあるものではないだろう。貴重な経験をしたあと、我が身をかえりみて全裸であることに、まず首をかしげた。頭がくらくらするのは昨夜の酒のせいだろうか。
眉間を指でおさえながら全裸の原因を思い出そうとして、はっと思い出したところで、後悔の二字が波濤のようにおしよせてきた。それから羞恥心と、ひたすら謝罪したいという気持ちも、一緒になってやって来た。だれに、とは、問うまでもないことだ。おのれのキャパシティも把握せずにすっかり酔っ払ったはた迷惑な後輩のめんどうをみてくれた、しんせつな先輩にたいしてだ。
ところが、その先輩・美優の姿が見あたらない。
床になげだされていた衣服をせっせと着て、――ああいっそ死にたい、などという本気でも冗談でもない自殺願望をかるく口にしながら、さしてひろくない室内を見わたした。美波の部屋ではない。美優の部屋だ。だから美優がいないはずはないのだが、美波の視界に映る範囲に彼女はいなかった。
すでに仕事に出たのだろうか。そう思ったとき、さきほどの叫び声を思い出した。それから昨夜の彼女のことばを。
あしたの朝は死にたくなるからとめてください、と言われた気がする。
「あッ――」
美波はあわてて身を起こし、ふりかえってまずベランダを見た。さっきも見たがもう一度見た。それからベランダに出て、体をのりだし、上下左右を確認した。下に美優の死体はないし、上に飛び降りそうな美優の姿はない。左右の隣人の部屋からとくになにも聞こえてこない。
ひとまず安心した美波は、つぎに風呂場へいった。美優は洗面台のまえにいた。そこでうずくまってうめいていた。なにも身に着けていなかったので、美波はとりあえず美優の服をとりにいこうとしてきびすをかえした、ところで、両手におおわれていた美優の顔があがり、美波を射抜いた。その視線に縛られて美波はうごけなくなった。
いまにも死にそうな顔をしている。人間がほんとうに絶望するとこんな顔になる、と美波はひとつ知った気分だった。
うごかない体をむりやりうごかして、そばにあった籠のなかにバスタオルがあったので、美優にそれを手わたした。
あらっぽい手つきでバスタオルを手にした美優は、浴室のドアをこれまたあらっぽい手つきで開けると、さらにあらっぽい手つきで閉めようとした。すんでのところで美波はドアに手をかけてとめた。
「お風呂、一緒にいただいていいですか」
思わずそう言ってしまったのは、美優が言っていた自殺をとめようとしたのか、やたらべたついてかなわない体をさっぱりさせたかったのか、美波自身にもよくわからない。
浴槽に湯は一滴もなかった。仕方がないので美波はお湯張りボタンを押してから、美優の肩を抱いて、昨夜恥ずかしいことに精を出した蒲団の敷かれている部屋にもどった。
その蒲団の上に美優を座らせて、洋服箪笥をかってにひらいて下着を物色し、美優に着けてもらった。さきにわたしたバスタオルは美優の体をつつむことなく、洗面所になげすてられている。
下着を着けながら美優はまだなにかうめているようだった。さらに寝間着につかっていると思われるTシャツとハーフパンツをさがしだして、美優にわたした。裸で寝て、起きて寝間着を着る、というのもおかしな話かもしれない。そうでもないか、いや、やはりおかしい、などと思っているとつい苦笑がこぼれたが、笑ってる場合ではないと思いなおした。
なにせ、美優の絶望にみちた表情は、さきほどからかけらも変わってはいないのだ。
目をはなすわけにはいかないが、いごこちのわるいことおびただしい。
「あの、お手洗い、借りていいですか」
そのいごこちのわるさが、そういうことばになって口から出た。
美優の首ががくりとたれた。うなずいている、と判断するのはちょっとむずかしかったが、美波はひとまずそう判断した。
首をたれさげた美優は、床の一点をみつめたまま微動だにしない。うごかない唇からぶつぶつと声がもれているのを美波の耳はのがさなかった。なんと言っているのか、あえてなにかをあてはめるなら、死にたい、の羅列にほかならなかったろう。
美波がちらちらと美優をふりかえりながらトイレにゆき、用をたしてもどってきても、美優はぴくりともうごいていなかった。
この場合うごいていないのは幸運ととらえるべきだろうか。まさか本気で死にたいなどと思っているわけではないだろうが、目つきが尋常でないことも否定できないのである。
多少視線をおよがせながら、美波は美優のとなりにちょこんと座った。
あしたの朝は死にたくなると思うからとめてほしい、と言われた。こんなことをしたら死にたくなると思うから、という意味だったといまわかった。こんなこと、とはようするにセックスのことである。翌朝そうなることがわかっていたなら最初からしなければよかったのに、などとは、美波にはとうてい言えない。一言も「ほしい」と口にしなかったとはいえ、そうあることを望んだのは美波のほうで、そういう目で美優を見たのは美波で、誘ったは美波で、せがんだのも媚びたのも美波である。美優はそれに応えたにすぎない。
あえて無責任な追及をするならお互い酒に酔っていたとはいえ、それから女性同士とはいえ、自宅にむりやりな理由をつけて連れ帰られたら、そういうことかと不安にもなるし、反面、期待ももつ。不安が消えてすぐに期待だけになったのは、もともと好意的に思っていた美優が相手だったからで、もっと言えば、彼女はどれほど酩酊したとしても無体なことはけっしてしないひとだ、という、ほとんど無限にちかい信頼である。これがたとえば男や楓ならそうはいかない。
じっさい美波はそういう<Tインを出して無碍にあつかわれなかった。かりに不安だけを目にともしていたら、美優はやはりなにもせずに、美波を寝かしつけただけだったろう。
こざかしいことに美波は、彼女がそういうひとだとわかっていたのだ、酔っ払った頭でもじゅうぶんに承知できていた。すると、わるいのはやはり自分ということになる。
「美優さん、あの」
「ごめんなさい」
「………」
さきに言われてしまった。謝りかえすと謝罪合戦になってとめようがなくなると思った美波は、ことばを呑み込んだ。
バシンとおおきな音がした。
おどろいて美優のほうを見ると、死にそうな目が骨張った手にまたおおわれていた。
「あの、ごめんなさい。ほんと、わたし、なんてことを……ごめんなさい。なんで、なんで……ごめんなさい、ごめんなさい……美波ちゃん、わたし――」
謝罪合戦は阻止したが謝罪攻撃は阻めなかった。美優は謝りたおした。くぐもった声でひたすらごめんなさいと謝りつづけた。
「いえ、わたし、こそ」
と思わず言ってしまったのを、美波に謝罪しながらも美波のほうはまったく見ないで、美波のほうに意識がむいているとも思われない美優は、耳ざとく聞いたらしい。
両肩をつよくつかまれて、はげしくゆさぶられた。おそろしく死にたそうにしている目が、美波を睨むように見ていることだけ、かろうじてゆれる視界でとらえられた。わたしがわるいの、わたしがいけないの、わたしが自制しなきゃいけなかったの、美波ちゃんごめんなさい、あなたを、わたしは、――。……とちゅうから鼻声になっていた。
美優はゆさぶるのをやめると、美波の肩をつかんだまま、うなだれた。ずるずると鼻をすする音がして、嗚咽をこらえる息がして、ごめんなさい、と声がして、美優はそれきりまたうごかなくなった。
美波はどうすればわからなくなった。
泣いているこどもをあやすのは得意なほうだったと思うが、泣いているおとなをなだめる方法を、まだ二十歳になったばかりの美波は知らない。だいいち泣いている理由が理由だった。酒をかっくらってぐずっている楓の世話とは、だいぶんかってがちがう。あのひとはなにがあっても死にたがりはしないだろう。
「美優さん……」
とんでもないことをしてしまったと泣いている美優を、美波にはどうすることもできない。この善良のひとにとんでもないことをさせてしまったと、美波のほうこそ泣きたくなった。そうして美波はついにめじりに涙をためた。それを堪えるかそのまま流してしまうか思案していると、
〈お湯張りが完了しました〉
機械加工された音声が、しめった空気をぶちやぶった。
ほんとうに死のうなどと考えているわけではないとわかっている。わかってはいるが、美優から目をはなすのはためらわれた。
湯を借りた恩だとむりを言って、美波は美優のせなかを洗わせてもらった。髪も洗わせてもらって、濡れてもよく指のとおるきれいな髪だった。美波はそのことにほのかに感動したが、ひとが美波の髪に触れたらおなじ感動をもつだろう。そういえばアーニャにそんなことを言われた記憶がある。美優も美波の髪を洗って手櫛をとおせば、アーニャとおなじ讃辞をおくったかもしれない。ただし、美優はこのとき美波の髪を洗わなかった。洗髪は美波が自分でやった。
その髪をぎゅっとうしろでむすんでから、湯の張られた浴槽につかった。
なんとなく気になって美波は剃刀の位置を確認した。剃刀は洗面台にあるのはみたが、浴室にはないようだった。美波とはそこがちがった。美波は浴室に剃刀を入れている。
似ているとよく言われるがこまごまとしたところでちがっているものだと思った。そう思ってから、似ていると言われたのは見た目だけだったっけ、と思い出した。ものを置く場所や習性まで似ていたらほほえましいよりおそろしいという気持ちが先行しそうである。
美優の後悔の色は、昨夜のできごとを、過失とみなしているからだろうし、その認識におそらくあやまりはない。過失にはちがいない。立場が逆なら、美波がおなじ後悔の色を満面にひろげてうめいていたはずである。
ほんとうなら美波も昨夜のことをもっと愧恥すべきなのかもしれない。死にたくなるのは問題外にしても、もうしわけない気持ちでいっぱいになるべきなのかもしれない。が、美波のなかでそれらの感情はしだいに薄れていった。
自分まで、あれはあやまちであったとはっきり認めてしまうと、美優の立ちなおる余地がなくなってしまうと思った。だから美優はどうあれ自分はあれはあやまちではなかったという気持ちでいなければ、と思った。それはそれで美優を傷つけるかもしれないが、まったく立ちなおれなくなるよりましだろうと思われた。
その決意表明に美波は言った。
「わたしは、昨日のこと、後悔しません。美優さんに抱かれてうれしかったって、思っています」
その瞬間、美優の頭は派手な水音を立てて湯船につっこんだ。
心臓が飛びでそうになりながら、ばくばくと心臓の音を鳴らしながら、美波は湯のなかから美優の頭をひっぱりあげた。どこを見ているのかわからないがとにかく死にたそうにしている絶望に満ちたまなざしを、かたくなにこちらをむこうとしないあごを、全力でつかまえて、むかせて、美波は言った。
「後悔、しないでください。それじゃあ、わたし、抱かれ損じゃないですか。いや損得の話じゃないですが、バカみたいじゃないですか、期待したわたしが」
めいっぱい力をこめてつかんでいる美優の顔がまたぎちぎちとうごいて湯のなかにつっこみそうになっているのを、美波は懸命におさえた。そんなに溺れたいのかこのひとは。
「まちがいじゃないです。あれは一夜のあやまちなんかじゃないです。わたしはぜったいに、そんな記憶にはしませんから」
ああ、また泣いている、と美波は思った。なさけないと思ったし、いとおしいとも思った。涙をぬぐってなぐさめてやりたいと思った。けれど。そうしたらきっと美波の力の拘束をまぬかれた美優は、すぐにまた湯のなかに首をつっこむだろうから、できなかった。
この強情ばり、とすこしののしりたくなった。でも、むこうも、もしかしたら、自分の後頭部と顎とおそろしい力でつかまえている美波にそう思ったかもしれない。
「とめて、といったのは、美優さんですよ。死にたくなるからとめてって、あなたが言ったんです。抵抗、しないでください」
たぶんこういう強硬な態度をみせるからがんばってね、と、あのとき美優は言いたかったのだろう。なんて無責任なおとながいたものだ。美優のそうした一面が美波には意外であったし、また当然のもののように思われた。彼女はたしかにそういう性格のひとだと思った。酒の勢いで後輩と体をかさねて、こうならないわけない。このひとはそれを自覚していたのに、美波の欲求にそれでも応えてくれたのだ。
――わたしはもっと後悔するべきかもしれない、と美波は何度となく思ったが、そのたびにそれを否定した。後悔はしない。あれはあやまちではない。美波のあやまちでなければ、もちろん美優のあやまちでもない。そう信じたかった。
それを美優にも信じてもらうには、どうすればいいだろうか。
おもいのほかはげしい抵抗とたたかうことしばし、美波はひとつ結論を出した。すなわち、こういう色気のないことを言ったのである。
「美優さん、今夜も、どうですか」
酒の抜けた今夜、同意の上での二度目があれば、もう昨夜のこともあやまちとはいえなくなるでしょう。そう言ったのだった。
ほうけた目でみつめられた。
美波はこの日はじめて死にそうでない美優の目をみた。うつらぼんやりとしてなにを言われたのかまだ理解しきってない目をみた。その目をずっとみていたかったが、美波はまずは美優の後頭部とあごから手をはなすと、側頭部にそえなおして、それからちからいっぱいに湯船につっこんだ。
そして、自分も湯船に頭をつっこむと、湯のなかで目をひらいて、あれだけ溺れたがっていたわりに苦しげにもがいている美優の唇に、いたって強引にキスをした。