十二時ちょうどのOne More Kiss

 死にたがりの三船美優が風呂からあがってやったことといえば、まず美波にされるがままに髪を乾かしてもらい、服を着せてもらったことである。さすがに下着は自分でつけたような気がするが、なにしろ頭が朦朧としているもので、そのあたりははっきりしない。
 それから美波に肩をあずけてふらふらとした足どりで部屋にもどると、敷きっぱなしの蒲団をしまうでもなくて、湯あたりをおこしたみたいにへたりこんで、ぼんやりと窓の外をみていた。
 それだけである。
 そのあいだに美波は朝食の用意をしてくれた。ぼんやりしたままの美優をどかして蒲団をかたづけ、壁に立てかけていた卓を部屋のまんなかまで持って来て、朝食をその上にはこび、そのあと美優を卓のまえに座らせた。
 美優はずっとぼんやりとしたまなざしをうつろのただよわせ、その身は美波にまかせきった。美波の節介をこばむ気になれない。自分でなにかする気にもなれない。
 朝食のメニューはトーストと茹でたウインナー、トマトとレタスのサラダ、それにコーヒーがならべられた。そういえば砂糖がどうとかミルクがどうとか聞かれた気がする、と美優は思った。台所借りますね、とも言われた。自分は返事をしたのだろうか。美優には全然、思い出せなかった。
 つと卓におとしていた目をあげると、真正面に美波がいる。
 唇がうごいた。たぶん、いただきますと言ったのだ。美優とちがって美波ははきはきとした声でしゃべるのに、どういうことかまるで耳にはいってこない。パンを食べている。サラダを食べている。唇がうごいている。
 美波と視線があった。なにかを問いたそうな目をしている。――なぜみているんですか、と訊きたいのだろう。そんなことはうすぼんやりとした頭でもすぐにわかる。
 はっとして逃げるように目をそらした。
 ちいさな嘆息がいやにはっきりと聞こえたような気がした。
「いただきます」
 ぼそりとそう言ってもそもそとパンをかじる。まずいことをしたのかもしれない。いや、さっきのはいかにもまずかった。目をそらしてしまうくらいなら最初からみるべきではなかった。
 ――でも。
 心のなかで首をふる。仕方のないことだ。どうしたって目にはいってしまった。目にはいってしまったのだから、みつめるほかなかった。湯のなかでもがいて、感触などまるで憶えていない。それでも自分のこの口は、この唇は、彼女のそれに触れられたことを知っている。唇だけでなく全身が、その事実を正しく認識している。
 思考だけはまだ半分ほど理解できていなくて、半分は理解してしまっているから、とっさのときにああいう行動としてあらわれてしまうのだろう。
 ――キスされた。
 それがむしょうに恥ずかしくて目をそらしてしまったのだ。いまのいままで心の深いところに沈んで蓋をされていた羞恥心が急浮上してきた。
 昨晩美波のそこかしこに、それこそ唇をふくむ全身にキスをしたのは美優のほうであって、あるいはそれが年若い美波のファーストキスだったかもしれないのである。
 ――いや、まさか、もてそうだし、彼氏のひとりやふたり……、あ、でも貞操観念固そうだから、ないのかも……、あれでもだったらなんでわたしは……。
 あれこれ考えていると両頬をおもいきりつかまれた。ついさっきもこんなことがあった気がする。
 食事の手をとめた美波が、卓から身をのりだして、両手で美優の頬をおさえ、そうやって、また死にたそうな顔をしていたらしい美優を、真剣なまなざしでみつめた。うつくしい眉をひそめて、やわらかかったようなそうでなかったような、あいまいな記憶ののこる、やはりうつくしい唇を真一文字にむすんで、無言で美優をみている。
 謝ったら怒られそうな気がした。なぜかそんな気がしてならなかった。謝るかわりに目をそらさずにみつめかえすことにした。
 五秒ともたなかった。すぐにまた顔をそむけた。美波の手はあっさりと美優の頬を解放した。風呂にはいっていたときとちがって、美波は力づくで美優を自分のほうにむかせようとしなかった。
 座りなおして、
「美優さん」
 と呼ぶ。その声もきれいだった。
 似ている、とはだれが言いだしたことなのか。
 いま考えるようなことではないだろうに、ふいにそんな疑問が、美優の頭のなかをぐるぐるとかけめぐった。
 また嘆息が聞こえた。耳にこびりつく。やはりさきほども気のせいなどではなく、美波は泣きたくなるような嘆きの息をもらしていたのだ。
 美優はもうそらしない顔を、どうにかそらせないかと考えた。およがしようもない目線をおよがせないかと思った。率直に言って死にたいと思った。
 美波はこの種の息を、いつもぐっとこらえてけっしてあからさまに吐き出さない。それなのに、あからさまに嘆息してみせるのは、あきらかな異常だった。
 異常の原因はわかりきっている。美優はそれから逃げたくて仕方なかった。それがどれほどなさけないことかわからぬ美優ではなかったが、なさけなかろうがぶざまだろうが、逃げたいものは意地でも逃げたい。
 それにしても美波は元気である。活発なのは性格だが人生初めての酒を飲んでその夜にやることやっての翌る朝だというのに、口調も動作も緩慢なものがなく、しっかりとしている。こうなると酩酊するほど酒をあおった昨夜の暴走が、信じられないことのように思われてきた。初飲酒であればそれくらいの失敗はだれにも大なり小なりあるものだが、美波はそれすらさっとかわしてしまえる器用さをもっているはずだった。とめなかった周りも周りだが、よもや美波ちゃんが、という油断が、心のどこかにおちていたのではないだろうか。
 異常なのは、いまだけにかぎったことではない。ようやく美優は思いだした。美波は昨夜からずっとおかしかった。酒の席を設けてみなで彼女に飲酒デビューをさせた、まずは一杯、と口あたりのよいチューハイに唇をつけた、あのときからすでに異常ははじまっていた。
 彼女は昨日からずっと異常なのだ。
 美優は箪笥をみるともなくみていた目をぎゅっとつむってから、一度おおきく深呼吸した。そして寝違えでもしたのかというほどかってのきかない首をぎちぎちとうごかして、美波のほうにむきなおり、これまたかってのきかない固くとじた目をひらいた。
「美波ちゃん」
「その顔は、やめてください」
 泣きすがるような声で美波は言った。思わず、ごめんなさい、と言いそうになって、ちがう、と首をふった。いますべきなのはそれではない。
 では、なにをすべきなのだろう。
 泣きそうな女の子が目の前にいるのだから、その子をそっと抱きしめてあげるべきだろうか。が、泣かせているのはだれだ、と思うと、美優は心のなかで首をふった。
 ――おかえしのキスとか。
 それだっていまこのタイミングでするのはおかしい。
 ――いや、それよりも……。
 キスされるまえに、たいへんなものをうけとっている。夜のお誘いをちょうだいしたのである。返事はまだしていない。その返事をいまするのは……また首をふる。やはりタイミングがおかしい。
 なにをすべきか考えてもわからなかったので、美優はコーヒーを飲んだ。とりあえず朝ごはんを食べよう、ということにした。気まずいのは仕方がないとあきらめる。やがて美波も食事を再開した。表情の暗さはかくしようもない。いや、かくそうとしない、といったほうが正しいだろう。いまの美波にかぎってはそう捉えたほうがまちがいがない。
 食事はすぐにおえてしまった。他にすることもなければ、進みは早くなるだけだった。
 美優があっとおどろくまもなく、美波は食器をあつめて洗いにいってしまった。てつだうことを拒否しているとしか思われないほど素早いうごきだった。
 美優はおとなしくその場に座って待つことにした。
 また窓の外に目をやる。飛び降りたいわけではないが、おきどころのない視線をやろうとすると自然ともってゆく方向はかぎられた。
 一夜のあやまちではない、と美波は言ってくれた。これは美波のわがままというより、やはり美優へのやさしさだろう。どちらかだけではなくどちらの気持ちも美波のなかにあると美優には思われた。では割合としてはどうなのだろうか。まさっているのはどちらの気持ちだろうか。美優にはわからない。さらにわからないのは美波が、美優に抱かれたことを、うれしい、と言ったことである。この場合うれしいというのは、昨夜その最中にみせた快楽とはことなるものにちがいなく、ことばの十分を本音と思ってよいものなのかどうか。
 相手はあの新田美波なのである。発せられることばに気づかいが内在しないはずがない。それを忘れてはなるまい。
 それにしても二十歳になったばかりの娘にそこまで気づかわせる自分とはなんであろうか。
 美優は頭をかかえたくなった。気分が際限なくおちこんでゆく。
 いつのまにか洗い物の音が消えている。正確にはそのことにいま気づいた。
 ああ、おわったんだ、と思った。そう思った瞬間にはもう美優はうしろから抱きしめられていた。
 そこから長い沈黙があった。
 呼吸する音と心臓が鳴る音、それに布地のこすれあうかすかな音だけが、部屋のしじまを満たした。

 それほどつよい力で抱きしめられているわけではない。美優はまなじりを決して腕をふりほどき、美波のほうにむきなおると、彼女の顔を胸に抱きよせた。
 すべきことを考えに考えぬいても、けっきょく頭にうかんだのはそのくらいのことだった。
 胸にしめったものを感じた。泣いているのかな、と思った。ただし、泣いているのが美波なのか、自分なのか、両方か、わからない。
「わたしは昨夜のことを悔やみつづけると思います。そうするべきだとも思います。いちおう美波ちゃんより六つも上のおとななので、やってはいけないことをやってしまったのは、反省しないといけないことなんです」
 そう言ってから、
「あれは、わたしが、ほんとうになにがあっても流されちゃいけなかったのに、流されたのがぜんぶ悪いから」
 と、つけくわえた。責任の所在をはっきりしておかなければいけない。美波に気負わせてはならないのである。
「やってはいけないことでしたか」
 かぼそいちいさい声だった。
「はい」
 きっぱりと答えた。抱いたことを悔やまれては抱かれ損だとか期待した自分がバカみたいだとか美波は言ったが、美優はそこだけはいかにしてもくつがえせないと思った。
「やってはいけないあやまちです。あやまちは二度犯しません」
 と美優は言った。それはそのまま美波がおそらくは美優の罪悪感をとりのぞこうとする思いやりのために言った、今夜もう一度、という誘いを、美優がけとばしたことを意味していた。
 ぐっと息を呑むような音がした。美波がなにか言いたそうにして、言わずに堪えている音がそれだった。
 美波がすこし身をよじった。美優は腕をといて、抱きよせていた美波の頭を解放した。
 うつむいていた顔がもちあがって、その目はやはり泣いた痕跡があった。が、もう泣きやんでいる。
 たしかな意志をもったつよいまなざしだった。ここでたじろぐようではなんにもならない。美優も視線をつよく、美波をみつめた。
 無言でずっとそうしていた。
 やがて美波が、ふっと息を吐いた。それがなんだったのか、考えないでも美優にはわかった。
 美波のなかで、ひとまず決着がついたのだろう。数回のまばたきののち、視線がはずれた。
「そろそろ、帰りますね」
 まだすこし翳りのあるほそい声だったが、美波はそう言った。
「美波ちゃん、今日は大学は……」
 と美優がたったいまようやくそのことに思いあたって、心配になって訊くと、美波はふるふると首をふった。
「お酒を飲んで、次の日どうなるか、わからなかったので」
「そう。……」
 しっかりとしていることだ。どうなるか、といえば、昨夜酒にまかせた結果こうなっているので、なにも取らなくて正解だっただろう。
「いちおう午後の三時からレッスンが入っています。予定はそれくらいです、ね」
 と言った美波は、ちょっと笑ったようだった。ほんのちょっとだけ笑ったふうにみえた。
「美優さんは」
「わたしも午後に一件入ってるくらいだから。ドラマの撮影がないときはスケジュールがだいぶ空くから、だいたい家にいる」
 訊かれてもいないことに答えたのは、ひとつの意思表示だった。昨晩に美波とのあいだにあったことはあやまちだと言いつづけるつもりの美優だが、美波との関係のなにもかもを否定するわけでも、美波から発信されたものをすべて拒否するわけでもない、という、美優のもつ弱さが見せた意思表示だった。こういうことは考えなしに口から出てしまうことが多いのでたちが悪い、と美優は、言ったあとに苦虫を噛みつぶしたみたいな顔をした。
「そうですか」
 と言った美波がほのかに喜色をうかべたからといって、これでよしと思うのも、ほんとうはいけないことなのだろう。
 ――でも、笑ってくれるならそれに越したことはないし。
 それなのに自分へのいいわけはよどみなく心の内側から発せられる。自分のなかには御しがたい自分がつねに居座っている。じつに厄介だ。美波が笑ったのをみて、笑っている自分がいる。美波が喜色をうかべたのをみて、喜色満面になっている女が、美波の目の前にいる。なんと厄介なことだろうか。
「もうすこし」
 だから美優は言った。
「もうすこし、ゆっくりしていって」

 けっきょく美波は十二時ごろまで美優の家にいて、掃除だの洗濯だのそれから最後に昼食の準備に至るまで、一宿一飯の恩義と言わんばかりに美優の身のまわりの世話をせっせと焼いた。
 帰りぎわには、
「いろいろご迷惑おかけしました」
 と言ってかるく頭をさげた。
 美波は美波で引き下がれないものがあるだろうから、美優はもうお互い様ということにしよう、と思って、それについてはあれこれ言わずに、とりあえず、
「うん、気をつけて」
 と言った。だいいち狭い玄関で頭をさげあってもろくな事態にならないだろうことはたやすく想像できる。
「あと、それと……」
 玄関戸を開けて出ようとしていた美波をひきとめ、ちょいちょいと手招いた。
「はい?」
「もうちょっと、もうちょっとこっち」
 まだ手招く。
 いぶかしそうに美波が首をかしげ、半歩、こちらに近づく。ガチャンと重い音をたてて玄関の戸が閉じられた。
 まだまだ遠いので、美優は上下に手をゆすった。
「こっち、こっち」
 また半歩近づく。これ以上は美優の体にはばまれて近づきようもない。
「美波ちゃん」
「はい」
 やわらかい唇に口づけた。
「いまのは、場に流されたとか、お酒の勢いにまかせたとか、そういうのじゃなくって、ちゃんと、考えてやったことだから」
 美波は呆然としている。
「だからね」
 でもうまく口がうごいてくれない。もともとことばはうまいほうではない。なにかほかに、いいわけではない、ちゃんとした説明ができないものか。
「だから……」
 そんな調子で、だから、つまり、とくりかえすだけでろくな説明のできない美優は、自分の口づけたとき、早苗か楓か友紀かだれだか思い出せないが、とにかくだれかにプレゼントされてすぐに壊れた鳩時計が正午ちょうどをさしていたことに、気づかなかった。
 壊れた鳴き声が部屋に響いていることに気づかなかった。

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