青空に落下する

 未来の精神状態は烈しい浮沈を繰り返している。
 響の死からほとんど完全に復活したように思われたが、それが見込み違いであることをクリスは思い知らなければならなかった。
 明らかに前夜泣きはらしただろう赤い両目をひらいて登校して来る日がある。
 ふらふらと体をかたむけて歩く姿を多数の生徒が目撃している。
 けれども、ふしぎなことに、未来のそうしたはれぼったいほおも、赤い目も、おぼつかない足取りも、そのどれもが、彼女の生気に溢れ、なかば死んだような白い肢体をひきずり歩く彼女の活力がいかにも充実しているように、周囲の人間に思わせたし、同時に、危うさも感じさせた。異常といえばこれほどの異常はない。
 根本的に精神のとほうもなく強い少女なのだろうと、クリスは、やはりそんな未来の姿にかなしくなる。
 未来はクリスを頼ってこない。
 ――たまに、肩貸してくれる?
 そう言ったくせに、なのに、あの夜以来、未来がクリスの肩に体を傾けたことは一度もない。
 早朝の走り込みは毎日欠かしていない。夜はかならずではないが、顔をあわせて、一緒に散歩している。
 だからクリスはあいかわらず未来とよく会うし、話もしている。
 それでも、三回目の夜の逢瀬で未来の手を握りしめた、あれきりクリスはその愛しい体に再び接触する機会を、うしなっている。
 クリスがあのあたたかなやわらかい手を握った夜、その瞬間から、未来はひどく不安定になってしまったように、クリスには思われてならない。自分のせいで未来の完全な立ち直りをさまたげてしまった気がしてならない。
 そう自責してみても、クリスは未来になにもできないままでいる。
 窮したクリスは翼に相談した。
「なあ、どうしたらいい?」
 廊下で翼の腕をひっつかんで、クリスは強引に話をきりだした。
「なんの話だ?」
「えっと、こ、ひなたの、話」
「それか、……」
 翼はむずかしげに眉をひそめ、目をつむって黙考をはじめた。
 それは数分もないわずかな時間でしかなかったが、クリスにはいやに長々と考え込んでいるように感じられて、じれったかった。
「なあ」
「雪音はどうしたいと考えている」
 目をひらいて、翼は言った。
「え……」
 クリスは目をしばたたかせて、その後むつと口を結んだ。それがわからないから、相談しているのではないか。わかりきったことを問われるのがクリスの気に入らなかった。クリスがなにも言いださないのを見るや、
「では、問い方を変えよう。雪音は向後、自分がどうしたいか、どうすべきか、わかっているのか、わかっていないのか」
「わかってない、だから相談してんだよ」
「なら、答えは私の胸にはないな」
「じゃあどこにある」
「その問いへの答えも、私の胸にはない」
 にべもなく言って、翼はクリスの手をふりはらい、足早に去っていった。クリスはその腕を再度つかまえることはできなかった。
 クリスは舌打ちしてから、やつあたりに石畳を蹴飛ばした。
 どうしろというのだ。肩を貸してと言われて、そうしようと決意したのに、自分の肩に未来は寄りかかってこない。むりやり抱きすくめてその状態をつくりだせばよいとでも言うのか? 自問するまでもない。できるわけがない。やってよいはずがない。
 ようやく立ち直ったとクリスには見えた。元気になったように見えた。精神的に、完全とは言えないまでもかつての安定を取り戻しているように見えた。それがクリスには嬉しかった。
 だから甘えてしまったのかもしれない。幼稚にも未来のやさしさに甘えたのだ。その浅はかさを、愚劣さを責めるおのれが、今になってクリスを苦しめている。
 クリスはもうすっかり未来の感触の消え去っている自分の手をみつめた。
 調子に乗ってこちらから歩み寄ったらこのありさまだ。自分の欲望を優先して手を握ってしまったばかりにこのざまだ! 彼女のやわらかい手が、絶えずひとをいつくしみつづけた手が、あの時なにものにも触れていなかった理由を、都合よく忘却した、その結果だ!
 立ち尽くすクリスの目からはらはらと涙が流れた。
 もしこの時のクリスの姿を未来が見つけたら、自分のことは脇に置いて、やはりやさしくクリスを慰めてくれたに違いなかっただろう。いちいちそういう少女なのだ、小日向未来という少女は。

 中庭の木陰で一緒に食事を摂ることがある。
「最近、元気ないね」
 未来はそんなことを言ってくるのだ。今日の未来は浮沈の浮のほうかな、と彼女の声の色や肌の艶から慎重に判断する。
「ちょっと疲れてるだけだよ」
 クリスはそう言って昼食の菓子パンをかじった。
「好きだよね、それ」
 それ、というのは菓子パンと牛乳のセットのことだ。クリスは学校での昼食といえば、そればかりを腹に詰めている。
「まあ、な」
 クリスは未来の手元に目をおろした。未来の昼食は手製の弁当だ。かわいらしい、そう表現できる弁当だ。響はたしか、おおかたが握り飯だったか。それに卵焼きとウインナーソーセージがたいていおかずとしてついていた。響は昼食は自分で用意していた。炊事は未来に任せっきりだろうとかってに想像していたクリスは、存外にまめ(﹅﹅)で女の子らしい響にずいぶんと驚いたものだった。
 今日はおだやかな風がふいている。枝葉や草のこすれる音が耳に触れてくる。すこし肌寒いかもしれない。
 未来の機嫌はよさそうだった。
(それなら……)
とクリスは、
「そっちは、どう、だ。ちゃんと元気か?」
 恐る恐る聞いてみた。
「全ッ然!」
 あっけらかんとして未来は答えた。
「躁鬱ってこういうの言うのかしら。突然気分が盛り上がってきたり、やっぱり突然凄く落ち込んだり、……どっちでも涙がとまらないのよ。どうしてかな、泣いちゃう。声に出してね。悪い夢は見なくなったけど、そのかわり良いっていうか、幸せな夢? 見るようになっちゃって、そうするとね、最後はかならず自分の悲鳴で目を覚ますの」
「悲鳴?」
「そう、こんなことあるはずないって、ヒステリックに叫んで!」
 やれやれといった感じに未来は両手を広げてみせた。
「朝、走ると全部すっきりするからいいんだけどね」
「あんまり、そういうふうには見えないよ」
 クリスは言った。
「そうなの? 自分じゃちょっとわからないわ。誰かいる時はちゃんとしてるつもりだけれど、むずかしいわね」
「誰かいる時でもちゃんとしなくても、いいんじゃ、ないかな」
 クリスはためしに言ってみた。
「肩くらいなら、貸すよ。約束したもんな」
「そうね。そんな約束してたっけ」
 未来のよくとおったうつくしい鼻筋に暗い陰翳が落ちた。弁当箱を包んで横に置くと、未来はくすくすと笑いはじめた。
「ごめんね、気を遣わせちゃって。――はあ、もうだいじょうぶだから、って言ったんだけどなあ、これじゃ嘘になっちゃう」
 そう言って未来は肩をすくめた。
「言った? 誰に? もしかして、響に?」
「うん。夢でだけどね。あの子凄く心配してたから、一緒にいてあげられなくてゴメンって、守れなくなってゴメンって、それでぐしゃぐしゃに泣いてて、もう見てられなかった、それで、私がしっかりしなくちゃって思って」
「そうか、そんなことが……」
 結局は立花響しだいなのか、この子は。クリスは落胆している自分を感じた。力になってやりたいのに、その資格さえ自分にはないのか。――そんなはずはない、と強く否定できない自分が情けない。
「言ったのか、生きるのを諦めないって、あいつに」
「もちろん」
 べつに生きるのを諦めてもいいんじゃあないか、あやうく言ってしまいそうになったクリスは、その言葉が口から出ないように菓子パンを詰め込んだ。死んでもいいだろうなどといった意味ではない。そんなにがんばらなくてもいい、そう言いたいが、うまい言葉が思いつかない。愛する伴侶が死んで、嘆きの底でうずくまっても、そこからがんばって立ち上がって生きようとしている彼女に、がんばるな、むりするな、とは言えない。
「じゃあ、がんばらないとな」
「うん。クリスにもまたいろいろ迷惑かけるかもしれないけど、よろしくね?」
「どんどん頼ってくれ。誰にも頼らないのを見るのは、あたしはつらい」
 クリスは正直に言った。
「ありがとう」
 と未来は言って、眉宇も明るく、うつくしく微笑んだ。
 弁当包を持って立ち、クリスに背を向ける。
 一瞬しか見られなかったその微笑にクリスは、しばらく虜にされて動けなかった。
 そのあいだに未来はクリスのもとから姿を消した。
 クリスの未来専用の肩は、その日も未使用のままで終わった。

 休日、遊びに誘われた。
 目的地はスカイタワーだ。
 水族館に行きたいのだと未来は言う。
 クリスは一も二もなく快諾した。
 現地で集合すると、何故か早朝に仕事に出かけていったはずの翼までいた。
「なんでえ、あんたも一緒なのか」
「小日向に誘われたのだ」
「仕事はどうしたんだよ」
「だから、これが仕事だ。小日向の護衛だ。叔父様からしかとそのように頼まれた」
 あいかわらずかちかちの喋り方でそう言うと、
「まさか雪音まで一緒だとはな」
「それこっちのセリフ……あたしは、遊びに誘われただけだから、護衛とかしないからな」
「それは私に一任してくれたらいい。ふたりは楽しむがいい」
 と言って、翼はほんのすこしだけ唇の端をあげた。笑ったらしかった。
「じゃ、行きましょう」
 明るい声で未来が言った。
 クリスと翼は同時に安堵の息を吐いた。
 天羽奏の忘れ形見の、そのまた忘れ形見を、翼はどういう目で見ているのだろうか。
 クリスは初めて、風鳴翼という心技体の極めて完成された戦士の、ひとりの人間としての心情に、想像を飛ばした。またそのことについて、すこしなりでも話してみたいと思った。
 青くうす暗い水族館は未来の心をはずませたようだった。せかせかと泳ぎまくる魚を見ては、手を打って喜んでいた。内心では響にそっくりね、などと、傍らに立つ幻の響をからかっているのかもしれない。クリスはそんなことを考えた。
 すこし離れたところから、クリスは翼と一緒に未来をながめている。
「かなわないな……」
 口をついて出たちいさな呟きを翼に拾われてしまった。
「雪音は、立花と戦っているのか。あるいは代わりになりたいと」
 かなわないな、と言っただけなのに、なんて鋭い人だ、この人はこの人でかなわないな、とクリスは思った。
「わからない。最初はそんなつもりなかったけど、最近はめっきりわからなくなった」
 だんだんと声をしぼませていった。情けない、情けない、クリスは近頃はそればかり自分に言い詰めっている。
「雪音」
 翼に名を呼ばれた時、物凄い爆発音が起こった。館内が激しく震動した。
「あっ――」
 はっとして未来のほうに目をやった時には、すでに翼がそこにいて、未来の体をかばっていた。
 まもなくけたたましいノイズ警報が鳴り響きはじめた。
「雪音、小日向を任せたぞ」
 翼は未来の体をクリスにあずけた。
「この子の護衛はそっちの仕事だろ!」
 ノイズの規模はわからないが、大群を散らすならクリスは翼よりも得意だと思っている。
「守れよ! そうしたいのならば断固そうしなくてはならない!」
 館内がうるさい。警報と、悲鳴と、爆発音、さまざまな音が混ざり合って、ほとんど叫ぶように会話しなくてはならなかった。
「ちくしょう、わかったよ!」
 クリスは未来の手をふたたび握った。
「逃げるぞ」
 そう言って走ろうとしたが、未来は動かなかった。
「おちついて。避難することと、慌てたり急いだりすることは違うから」
 未来は泰然としてクリスに言った。
(ああ、ちくしょう!)
 クリスはどれほど自分を情けなく思い、自分を叱りつけなくてはならぬのだろうか。いいかげん自分自身の至らなさに呆れかえりたくなってきた。
 水族館を出て、非常階段を目指す。
「ゆっくり、ゆっくり歩くんだぞ。だいじょうぶだからな、お父さんがついてるからな」
 やさしくてゆたかな男性の声が、クリスの耳にとどいた。
 そう、そのとおりだ。クリスは自分を戒めた。
 逃げるだけならもっと楽に逃げられるのだ、シンフォギアを纏い、壁に穴をぶちあけてスッキリ通り道を作り、ガラスを破って、そこから飛びおりればよい。それがもたらすかもしれない二次災害を気にしなければ、だ。
 クリスはいっそう強く未来の手を握りしめた。未来の不安や恐怖を取り払うためにやったつもりのことだったが、実際にはまるで逆のことだったかもしれない。クリスは自分の不安を取り除くために、またしても未来の力強いやさしさにすがってしまったのかもしれなかった。
 その時――。
 ひときわ大きな爆破音がした。
 瞬間、ぐらりとクリスの視界が回転した。足元からなにかが無くなった。体重の置きどころをうしなった。
 床が崩れ、天井が崩れた。クリスと未来はまんまとそれに巻き込まれた。ガラス窓などとうに消し飛んでいて、スカイタワーからじかに街並を遠望できるありさまになっていた。
 それでもクリスは未来の手は握ったままだった。
「クリス――」
 未来の叫び声が聞こえた。とっさに抱きすくめた。できるはずのないことだと思っていたことを次々にやるはめになった。
 落下した先でふたたび出現した床に、クリスは後頭部から激突した。
 ゆらゆらと視界が揺れている。ぼやけている。未来の顔がよく見えない。四肢に力が入らないせいで起き上がれない。
(やっぱり役割分担間違ってるぜ、なあ)
 ぼんやりとした意識でクリスは翼をなじった。翼であったらこんなヘマはしなかったろう。とっさにギアを展開させて危地を脱するくらい、難なくやってのけたに違いなかったろう。クリスはそう思うと、やっぱりこの配置は失敗だったなと思わずにはいられなかった。
 あの人はもしかしたら、こっちが思っているほど冷静でなかったのかもしれない。あの人だって、響が死んだせいでいっぱいいっぱいに追い詰められていることに、気づくべきだったのだ、もっと早くに。
 体からどっと血が流れていくのがわかる。その部分が火傷でもしたみたいに熱い。痛みより熱さのほうが強かった。
 激痛が走ったのは、未来がクリスを無理矢理抱き起こしたせいだ。
 出血の多い頭部だけらんぼうに手当すると、クリスの体をもちあげ、腕を自分の首に回し、腰を抱えて、未来は慎重に立ち上がった。
「すこしは、歩ける? ……ううんと、そうじゃなくて、歩いて、気合で」
 めちゃくちゃな注文をつけて、未来は避難を再開した。
 クリスはそれこそめちゃくちゃに泣きたくなった。
 ――どうして、お前はそうなんだ。
 かすれた声でかろうじて出た言葉は、未来にはとどかない。ふらつきながら、未来はクリスの体をひきずって移動してゆく。
 が、避難経路がはっきりとわからない。
「どうしよう」
 時々そう呟きながら、それでも未来は足をとめなかった。
 気合で歩けと言われてもクリスはほとんど歩けなかった。そのうち未来はクリスを背負った。
「重いなあもう。帰ったらダイエットね。朝練、クリスも参加しなさい」
 そんなことを言われた。
「ああ、もしかして、これほとんど胸のせい?」
 どうして、とクリスは言いたかった。声が出ない。
 どうして、そんなに強いんだ。クリスは言いたかった。もう声は出ない。気力もない。
 だから、ただ泣いた。血と涙を流して未来の背を汚す以外に、クリスにできることなど、もはやなにひとつもなかった。

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