死者には勝てない

 クリスは夢と現のはざまにいる。
 イチイバル、イチイバル、と誰かがしきりに、クリスが平生首にかけている聖遺物の欠片の名を呼んでいる。
 うるさいなあとクリスは思った。今は猛烈に眠いのだ。静かにしろ、そしてあたしを眠らせろ、と思った。
 イチイバル、イチイバル、と声はそのどんどん大きくなっていく。うるさくてかなわない。いったいそんなに、ひとの聖遺物になんの用があるのだ。そんなに名を呼んでなんだというのだ……。――「イチイバルッ!」
 夢は破られた。
「イチイバル! こらイチイバル! とっとと起きるデスよ! あーさー! ごはん!」
「あァ!?」
 クリスは布団から跳ね起きた。
「起きたね……。お目覚めの気分はいかが」
 枕元に座り込んでクリスをうかがっている調が訊いてきた。
「よくねえな。――お前の声は頭に響くんだよ、キンキンうるせえなあ」
 床から立ち上がったクリスは、夢を破ったうるさい声の主である切歌をひと睨みした。
「なにおう!?」
「ごはん、ごはん。早く行こ。マリアとマムが待ってるよ」
 対蹠的なふたりだ。調の声は静かで波がない。そして切歌はうるさい。とにかくうるさい。
「ごっはん、ごっはん、ほら、ほら」
 切歌がクリスを急かす。
 クリスは床に放り投げていた上着とペンダントをひっつかんで、身に着けた。聖遺物の結晶に通してある紐が首に取り付けられた黒いチョーカーにひっかかって、うまく降りない。手を後ろにまわして紐をつまみあげ、かっこうを整えた。
「おおゥ、じぃざァーす……もうちっとていねいに扱えデス」
 切歌はそう言って自分の聖遺物を指でいじった。
「ふん。これくらいで壊れやしねえよ」
「服のほうもね。痛んじゃうから」
 と調は言った。着の身着のままで二課を離脱して「フィーネ」に参加したクリスは、この一着しか服を持たない。スカイタワーでの負傷で染みついた血の痕がだいぶん残っているが、これはもう仕方がないと諦めるほかない。生きているだけ丸儲けだ。
「わかった。心がけてみる」
「なんか態度違くないデスか」
「気のせいだろ」
 そうやって三人でマリアの元へ行く。
 構成員の増えた、これが武装集団「フィーネ」の新しい朝の始まりだ。

 決断しない人だ、というのが、クリスから見たフィーネ・マリアの印象である。
 彼女は全世界中継されているライブで堂々と宣戦布告をして、世界中に喧嘩を売った。そういう言葉の勇ましさや歌の烈しさに反して、なにかにつけて荒々しい手つきを好まず、なにかを傷つけそうになると、さっと手をひっこめてしまう、そういう弱さとも優しさともつかぬ性分を所有する女性だった。
 なぜこんな人が武装組織のリーダーなどをやって、さらには永遠を生きる巫女・フィーネを名乗っているのか、クリスにはわからない。
 突然「フィーネ」に参加することになったクリスに不信感の拭えぬ目をむけながら、またあるいはまなじりをおだやかにして、今日も、
「おはよう」
 と言って、クリスにあいさつしてくる。やわらかいふくらみのある声をしている。
 彼女のなにひとつとって見ても、クリスの知るフィーネからはかけ離れている。
 ――やっぱり、こいつは騙りだな。
 とクリスにはマリアと会ってすぐに、以前から決めつけていた当て推量を固めた。が、口には出さなかった。切歌や調はどうもマリアが本物のフィーネと信じているフシがある。またそうでなくて口裏を合わせているのだとしても、やはりクリスが「マリアは偽のフィーネだ」などとわざわざ言うことはないだろう。
 武装組織「フィーネ」のリーダーは今生の名をマリア・カデンツァヴナ・イヴといい、フィーネの人格はまだ完全には覚醒しておらず、記憶や知識も曖昧であるという。そういうことになっているのだから、その一員になったクリスも、そういうことにすればよい。すくなくとも、未来とソロモンの杖を奪還するまでは。
 ただ一度だけ、
「二年くらい、一緒に暮らしてたんだ、あたしたち。なんかすこしでも、思い出せることないか、なあ」
 とマリアに言ったことがある。
「ごめんなさい、なにも……」
 マリアは心底申し訳なさそうに言った。大げさに落胆してみせると、マリアはまた「ごめんなさい」と謝った。やはりこの女はフィーネではない。その確信がさらに深まっただけだった。クリスは内心本気で落胆した。
 騙りとわかっていても訊いてみたくなったのは、たんにフィーネに甘えたかったからだろうとクリスはあの時の自分の心情を解析している。どうしてこうも自分は誰かに寄りかかり、甘えておらねば生きてゆけないのだろうか。クリスは嘆息する回数が増えた。
 軽い朝食を摂ると、さして時間を置かずにエアキャリアが動き出した。どこで修めた技術なのか、操舵はマリアの仕事だ。
 行く先はフロンティア浮上予定地、海の真上である。方角的には南洋へと進むことになるが、海は冷えるからと、マリアは厚手のコートを持ってきてクリスに渡した。真新しいコートだったのにクリスは驚いた。資金繰りが厳しいと切歌が言っていたからである。
 ――フィーネ、お前っていつも素ッ裸で過ごしてたんだぞ。
 そう言ったら、マリアはどんな顔をするだろうか。ふとそんなことを思いつき、あわててそれをかき消した。意味のない思考だ。
 クリスはそのコートを脇に挟んで、頑強な檻に収監されているネフィリムのところへ行った。
 ネフィリムは以前に対峙した時と姿が違って見えた。一回りも二回りも大きくなり、四足歩行の動物から二足歩行の人間に近いかたちに変わった体躯を折り曲げていた。太い二本の足でしっかりと立てば、そこには天を衝くほどの巨人が出現することだろう。
(こいつの腹をかっさばいたら、中からあいつが出てきたりしないかな)
 はらわたの煮えくりかえる想いを抱えてクリスは檻の中のネフィリムを睨み据えた。
(試してみようか)
 クリスは胸の結晶を指ではじいた。
「一つ前のフィーネは私たちとはずいぶんと志が違いますが、ただ同じく月の落下による災厄にさいして、フロンティアの浮上を計画していたと聞きます。あなたは彼女と共に行動していたそうですが、それについてなにかご存知で――」
 いつのまにか、ウェルがとなりに立っていた。
「月を壊すつもりでいたとさえ教えてもらってねえ」
 クリスは正直に答えた。
「それは残念」
 ウェルは肩をすくめた。
「あの女はフィーネではないのでしょう」
 ウェルはクリスにささやきかけた。
 クリスは一瞬ドクンと心臓が高鳴った。ウェルに気づかれないようにそれを抑えつけ、首を振った。マリアはフィーネである、とも、フィーネではない、とも取れるしぐさだったので、ウェルには不満だったようだが、すぐにその不満を捨てた。
「ははは」ウェルは笑って、「そうであっても、そうでなくても、我々のやることは同じです」――
「月とかフロンティアのことは教えてもらえなかったけど」
 クリスは言った。
「けれど?」
「それで世界を平和にできるって言ってた。人間同士の争いはなくなるって。それ≠チていうのが、フロンティアだの神獣鏡だの、それから、こいつのことだったんだな」
 クリスは顎をしゃくって、こいつ≠示した。
「そう、その通りですよ」
 満足げなウェルの言葉を、クリスは背中で聞いた。「ナスターシャ教授を看なければならないので、僕はこれで」と、ウェルは最後に残していった。
 クリスはネフィリムのいる檻を思いきり蹴り飛ばした。どうして自分はこんなところにいるのか、答えのわかりきっている自問を怒りとともにぶつけた。
 頭痛がする。
 クリスは頭をおさえた。
 いまだに残る怪我の痛みなのか、頭に血が上っているせいなのか、クリスにはわからない。気絶するほど痛くなればいいのに、というなげやりな思いと、そんな場合じゃない気をしっかり持て、という叱咤が、同時に脳裏をかけめぐった。
 ――会いたい。あの子に、会って話がしたい。その一心で、クリスは重い体を動かして、仇敵の住処を後にした。

 クリスは切歌たちがブリーフィングルームと呼ぶただの茶飲み場に向かった。いやに広いヘリの内部で未来に会おうと思えば、それがいちばん確実だった。どの時間帯でも十中八九彼女はそこにいる。
 睡眠も食事も、とっている姿をクリスは意識をとりもどしてから一度も見ていない。長いこと気をうしなっていて、目が覚めた時には自分の首には黒い枷が嵌められていた。
「スカイタワーから連れ出したら、そのへんに置いていこうかと思ったのだけれど」
 最初に口をひらいたのはマリアだった。そういえば……、とおぼろげな記憶の中から、自分を背負う未来とマリアとの邂逅を拾った。
 マリアには未来とクリスを助ける義理はないし、なによりクリスはけっこう酷い傷を負っていたわけで、なにも本拠にまで連れ帰る必要はまったくなく、言葉どおりそのへんに置いてゆけば、ふたりはやがて救助され、クリスもきちんとした治療を受けられたに違いなかったが、そういうマリアのある種の常識を、ウェルが阻んだのだった。
 結果、クリスは死にはしなかったものの、今でも頭痛に悩まされているし、いつのまにやら、敵組織の構成員に組み込まれてしまっていたわけだ。
 正規適合者は「フィーネ」にはひとりもいないから、クリスをむりやり取り込もうというのが、用意された言い訳だった。未来はそのための人質ということらしい。
 フロンティア計画にフィーネが遊びで作った玩具の正規の適合者がどれほどに必要なのかどうか、クリスにははなはだ疑問だ。ウェルの言動には謎が多い。
 それはさておいて、気絶していたクリスの意思は、当然それら一連の出来事にはすこしも介在されていないが、未来のほうはどうだったのかを実はクリスは知らない。誰からも訊き出せていないのだ。教えてもらえない、と言ったほうがよい。はぐらかされたり、言葉をにごされたり、それからマリアは口をひらけば謝った。
(訊かなきゃ。知らないと、なにもわからない)
 クリスは頭痛に耐えながらブリーフィングルームに行った。
 はたして、未来はそこにいた。
 切歌が買い集めたお菓子類にもお茶にも、未来はちっとも手をつけていない。手をつけたところを見たことがない。
 未来の首にはクリスのような枷はつけられていない。着ている服には煤とクリスの血が薄く付着している。
「怪我の調子、どう?」
 未来のほうから話しかけてきた。
「ちょっと痛いけど、まあだいじょうぶだ。それよりさ、そっちはどうなんだ、なあ、ちゃんと寝てるか? メシ食ってるか?」
 何度目の質問だろうか、これは。まともな返答があったためしがないが、それでもクリスは未来に会うたびそれを訊いた。そうしなければならない、未来の態度に変わり映えがなくともやめてはならないと思った。
「心配しないでもちゃんと寝てるし、ごはんも食べてるから」
「それ、それ、いっぺんも見たことないから心配なんだよ。一緒に食べて、一緒に寝ればいいじゃないか」
 クリスは未来の寝床がどこに置かれているのかさえ知らないのだ。クリス自身は切歌・調と一緒くたになって雑魚寝になって眠っているが。
「ほら、いちおう私、人質だもの。そういうケジメはちゃんとつけておかないと」
「ケジメってなんだ、べつに監禁されてるわけじゃないし、あいつらは平気であたしらを会わせるし、なんだったら今からだって、このヘリぶっ壊してお前を抱えて逃げるくらいなら、できるぞ」
「今そんなことしたら、首のそれ、爆発するから、それは駄目」
 未来は自分の首を指でたたいた。クリスはハッとして首に手を当てた。
「それだったら弦十郎さんたちが助けに来てくれるのをおとなしく待っていたほうがいいわ」
 未来は抑揚のない声でそんなことばかりを言った。
 スカイタワーの例ひとつとって見ても、未来が危難に対してつとめて冷静を保ちつづけられる人間であることは、クリスにだって承知だ。だから今の落ち着き払った態度だって、なんらクリスの知っている未来からのズレはないはずだ。それでも、クリスは疑いをとりのぞけない。自分が気をうしなっている時、未来と「フィーネ」とのあいだでどういったやりとりがあったのか、あるいは「取引」があったのか。
 なにか、は確かにあったのだ。その耳目で知らなくてもそれくらいは簡単に察せられる。
「なにを、企んでいやあがる」
 クリスは語気を強めて言った。
 凄まれた未来はくすりと笑った。
 またこれだ。クリスはいらいらした。こうやってのらりくらり、また話をかわそうという腹なのだろう。
「まるで悪事を糾弾されてるみたいじゃない」
「悪事を企んでるのか」
「悪事か善事かっていったら、たぶん善事、の皮を被った悪事。――うん? あれ? 逆かな?」
 未来は首をひねった。
「だいじょうぶよ。ちゃんと頼りにしてるから、困った時は、助けてって言うから」
「今すぐ、そう言えよ。ちょうど困り果ててるところじゃないか」
「ううん。もうちょっとあとで。今はまだ、まあしばらく、ねえお願い。もうちょっと付き合って」
 甘えた声でお願いされてしまった。
 情けないことに、これを言われるとクリスはあっさり自分の意見をひっこめてしまう。
 翼に言われた「断固」というものが、まるでできていないことがクリスにはつらかった。
 ――守れよ! そうしたいのならば断固そうしなくてはならない!
 あの時の翼の強悍な声がクリスの脳をゆさぶる。あの人は、今まさにそうしているところなのだろう、クリスと未来と助けるために、断固すべきことをしている最中なのだろう。未来の言うとおりにおとなしく待っていれば、案外あっさり救助される気もしてくる。
 しかしながら、どうやら悪事か善事を企んでいるらしい未来は、その翼の断固を、これもまた断固突っぱねるかもしれない。クリスはそんな不吉な予感がした。
「ちゃんと、守るから。タワーの時みたいなぶざまなことには、もう絶対にしないから、だから、なあ、あたしのこと、頼ってくれよ」
 クリスはほとんどすがるように懇願した。
「うん。頼る。助けてほしい時は、ちゃんとそう言う。もし言えなくても、助けてほしそうな顔してたら、その時も私のことを助けて、クリス」
 未来はそう言った。
 クリスは未来の言葉の意味をできるかぎり正確に汲み取ろうと努力した。
 まじまじと未来の白い顔をみつめる。クリスが期待している、助けてほしそうな顔、からはほど遠かった。
「どうして」
「うん?」
「どうして、そんなに強いんだ、お前は」
 以前に言ったのと同じ問いをクリスはまた言った。泣きたくなるような声だった。
「強くないよ。強かったこんなことになってないもの」
 そう言い返した未来の声も、やはり泣くようにふるえていた。
 クリスは首を激しく振った。
「違う。お前は強いんだ。バカみたいに、かわいそうなくらいに、強いんだ。強いからこんなことになっちまったんだ。だって、お前が強くなかったら、あたしはお前のことを助けられたんだ。あいつがいなくたって、お前のことを守れたはずなんだ」
 クリスは叫ぶように言った。泣きたくなるような声は実際に泣き声に変わった。
「ちくしょう、どうしてだ。どうしてお前はそんなに強いんだ。どうして、あたしに守らせてくれないんだ、なんでだ、なんでなんだよ、あいつじゃなきゃ駄目なのか、結局全部、みんな、あいつでないと、お前には駄目なのか――」
 その場に座り込んで、床を拳で叩きながら、幼児がだだをこねるように泣き叫ぶクリスを、未来は呆然とみているほかなかった。

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