聖女は狂った

 肩を貸す以外にもう一つ、未来とした約束が、クリスにはある。
 助けてと言われたら助ける、言わなくても助けてほしそうな顔をしていたら、これもまた助ける、それである。
 ただしクリスはこの約束は半ば果たされないものだと思っていた。もちろんクリスは未来を助けたいが、すくなくとも未来がクリスに対して助けてと頼むことも助けを求める顔を向けることも、こればっかりはないような気がしてならなかった。半ば、というのはそういうことである。
 夜、クリスはまるで寝つけなかった。
 昼間たっぷりと睡眠をとってしまったせいもあるのだろうが、未来からの唐突な愛情の告白に興奮したのがおおかたの原因である。
 嘘だろうとクリスは思う。未来はクリスのことを好いてくれているだろうが、あの愛の告白はどう考えても嘘に決まっている。それでもクリスの体は昂ぶったまま一向に鎮まらなかった。
(駄目だ、これはまるで駄目だ)
 起き上がったクリスは、いびきをかいて眠る切歌の体をまたいで、寝床から脱した。
 この組織の不用心なことに、夜中にヘリから外出できる。
 まったくあけっぴろげでいいかげんなテロリストたちである。クリスの知るかぎりではこの手の組織はどこまでも厳粛で細密で残酷なものだったはずだ。
 クリスは呆れながらもさいわいに思い、林間に押し込まれたヘリを出て、欠けた月の居座っている夜の空をあおいだ。
 雲はない。
 満天の星である。
 冷たい風が吹いている。コートは羽織っていないから寒いといったらない。だが、この冷気によってクリスは自分の火照りに火照った体をどうにかしたかった。そのためにコートを持ってこなかった。
 それにしても熱は下がるどころかぐんぐんと上昇しているようだった。
 クリスは服を一枚脱ぎたくなったが、我慢した。
 月を見ると思い出すことが、クリスには多い。逃げるように彼女は林の深いところを目指して歩き出した。
 枝葉が増えて空を覆ったため、さすがに完全に月光をまぬかれることはできなかったが、クリスの視界は徐々に悪くなっていった。クリスにはありがたいことだった。
 風に吹かれた林が夜にうるさく鳴いている。
 そのせいだろうか、クリスは自分の後をつける足音に気づかなかった。
 立ちどまって、てきとうな木を選んでそこに背をもたれさせた時、いきなり声をかけられた。
 とっさにクリスは自分の胸のペンダントを手でたぐりよせた。
「こんなところでなにしてるの?」
 そう言ってきたのは未来だった。
「なんだ、お前か」
「不用心ね」
「どいつのことを言ってるんだ?」
 クリスは言った。
「お前も夜風にあたりに来たのか。月光浴ならヘリの近くのほうがいいぞ」
「風のほうよ。月がまぶしくて仕方ないから、こっちのほうに来たら、クリスがいたものだから」
「ふうん」
 クリスは未来の言葉を疑わなかった。
 心臓がどくんどくんと高鳴ってそれどころではなかった。
 あたりが暗くて助かった。真っ赤に染まった顔に気づかれずにすむ。風も強いから心臓の音にも気づかれないだろう。
「寒いね」
 未来は言った。
「そうだな。でも、コートを貰っただろう。あれを着てくればよかったのに」
「コートを着ていたら風をあびられないじゃない」
「コートくらいじゃどうにもならないと思うけど」
「ふふ、そうね。そうかもしれないわ」
 未来は笑った。クリスが愛すべき愛しつづけている彼女の笑顔は夜にしずんで、よく見えなかった。クリスはこの時ばかりは、そうやって未来の笑顔が見えなくてよかったと安堵した。見てしまったら自分の気がどうなってしまうか、わかったものではなかった。
「でも、それを言うなら、クリスはどうしてコートを着てこなかったの」
「あたしは、熱かったから」
「暑い?」
 未来は手をひたいの近くにかざして、気温を確かめるようなしぐさをした。
「体が、熱くて」
「風邪ひいちゃった?」
「さあ、……」
 クリスは返答に困った。素直に言う必要はないだろうと思いつつ、
「いや、風邪じゃあないな。ただ、なんか熱かったんだ」
 と言った。
「そう」
 未来はそれ以上問い詰めなかった。
「クリス」
 未来は名前を呼んだ。透き通った冷たい声だとクリスには感じられた。
 いつのまにか風が落ちている。
 自分の心臓の音も静かになっていた。
「どうした?」
「助けて、って言ったら、助けてくれる?」
 未来は言った。この声は異常な高熱をもっているようにクリスは感じた。多少気圧されるかたちで、思わずクリスはのけぞり、木に背中をぶつけた。ひとつおおきく深呼吸してから、
「もちろんだ」
 と答えた。
「ありがとう」
 未来はそう言って笑ったようだった。
 クリスはここはどうしても聞いておかなければならないことがあった。
「なにをどう、助ければいい」
「私の味方でいてほしいの。私はクリスを裏切るかもしれないけど、クリスには私のことを裏切らないでほしい。私がなにをしても、クリスには味方でいてほしい」
 そう言うや未来はクリスに倒れかかってきた。それから押し上げるように体をぴたりとくっつけた。
 そんなことをされては、クリスの鼓動はまたしてもその速度を増していかなければならなかった。
「なにをする気なんだ」
 息苦しさを感じながら、クリスはせいいっぱいの声で言った。
「それは言えない。言ったらとめられるから言えない」
「そんなこと聞いたら、今からでもとめたくなる」
「駄目。クリス、お願いだから私のことを助けて」
「助けたいに決まってる!」
 クリスはもうほとんど叫んだ。
 未来の言っていることをクリスは理解したくなかった。
 未来はクリスに自分のことを助けてほしいと言った。味方でいてほしいと言った。クリスは当然そのつもりだし、言われるまでもなく未来を裏切るつもりなど全然ない。だが、未来はクリスを裏切るかもしれず、なにをしようとしているのかも教えられないという。その理由は言ったらとめられるから、ときている。
 納得できるはずがない。ああわかったと安請け合いできることではない。
 ひきさがらないのは未来も同じだった。
 突然、クリスのほおに両手をあてると、ひきよせて、くちづけた。
 クリスは驚いて未来をひきはがそうとした。ところが未来の力は思いの外強く、なかなかひきはがせない。ふたりの唇が密着したまま離れない。未来はクリスをつかむ手にいっそう力をこめた。
 長いことそうやってくちづけをつづけた。ようやくクリスの唇を解放した未来は、ふたたびクリスの胸に自分の顔をしずめた。まるでクリスの心臓の音を聞こうとしているようだった。
「私の全部、クリスにあげるから」
 未来は言った。
「クリスのほしいもので私の持っているものは、全部あげる。だから、なにも聞かないで助けて、私についてきて」
「バカなこと言うな。そんなの、聞き入れられるわけないだろ」
 クリスはふるえた声で言った。歯が噛み合わない。カチカチといやな音が口内でうるさく鳴る。ずるずるとその場に倒れ込みそうになる体を、クリスは背中を木に押しつけて必死でささえた。
「バカよ。だからバカなことしか言えない。でも、そのバカを好きになったのは、誰なの」
「お前、は……」
 クリスはいよいよで体の力の抜けるのをとめられなくなってきた。クリスが立っているのは、もはやクリス自身の力ではなく体を密着させて離れない未来の力によってだった。
「愛したのは誰なの? 私? クリス? それとも響?」
 クリスはめちゃくちゃに混乱した頭をどうにかおさめようと努力した。努力しながら、未来になにか言わなければならないと烈しく思った。なにも言わなければ自分は未来の言葉にしたがったことになってしまうと信じた。
「あたしは、お前のことが好きなんだ。頼むからそんなこと、言わないでくれ。お前が好きなのは響じゃないか。あいつのことを愛してるんじゃないか。あたしはお前のものなんてなにもいらない。いらないから、そんなこと言わないでくれ」
 熱はもうすっかり消え失せていた。ただ心臓だけが高く速く鳴っていた。
「愛してる。クリスのこと、私は愛してる」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
 クリスは初めて、未来の存在に妖気を感じた。妖艶で陰気なふんいきをいやおうなく感じとった。
 クリスの心を支配していた小日向未来のうつくしい像がガタガタと崩れていく。それはある種の神聖性と純粋性をもって、これまでクリスの心をずっと支配していたが、そのどちらもが、他ならぬ未来自身によって粉々に砕かれようとしている。跡形もなく崩れ去ろうとしている。
「泣き虫、いくじなし」
 未来の痛罵が下からあがってきた。クリスは自分が泣いていることに気づいた。昼間泣きに泣いて一滴の涙も残らないほど泣いたと思っていた涙が、ここでもまたとめどもなく垂れ流された。
「お前は、誰だ。誰なんだ」
 クリスは声をしぼりだして言った。クリスの愛したやさしいあたたかい陽だまりの少女は、今や小日向未来に化けた妖怪だとでも思わなければ、とても信じられない姿をさらしていた。
「知ってるくせに」
「知らない。あたしはお前なんか、知らない」
 クリスの涙がその自身の肉体から離れ落ちると、未来の髪をすこしずつ濡らしていった。
「わかった」
 低い冷たい声だった。あたたかくもやさしくもない声だった。
 未来はクリスから体を離すと、二歩、三歩と、後退した。
 ささえをうしなったクリスの体はあっけなく地面にずり落ちた。
「知らない人間となら、なんでもできるでしょう?」
「え――」
 クリスはゆらりと首を動かして、未来を見あげた。
 衣のこすれる音が聞こえてきた。
 未来がなにをしようとしているのか、なんとなくクリスにはわかってきた。さきほどの言葉の意味もわかってきた。未来はクリスのむごたらしい過去を痛烈に踏みにじったのだ。
 ――とりひき。
 そんな言葉が、クリスのうすらぼんやりとした脳に閃き、消えていった。
 はたしてクリスの目前に未来の裸体が出現した。
 月光のろくにとどかぬ深い林の中で、その裸体は独立したかがやきを放っていた。
 妖しく、艶やかで、陰気なかがやきだった。
 未来はまたクリスにくちづけた。
 クリスは自分の服のぬがされていくのを感じた。
 しかしながら、クリスはもう、未来のするなにものにも逆らわなかった。

 淫靡なふたつの影が夜の暗闇の中で重なりあっている。
 そこだけ地面がもりあがり、間断なくうごめいているようだった。
 土の上に衣一枚敷かれただけのそこに寝転ばされたクリスは、最初は歯を食いしばって声がもれないようにしたが、覆い被さっている未来が気に食わなさそうにしているのを見て、口をあけはなった。
 冷たい愛撫とも呼べない愛撫をうけていると自然と淫声がもれでた。
「作り声ね」
 そう言われた。あながち間違いではない。そうやって淫らに喘いで見せれば、相手は喜んで、それだけ事が早く終わることが圧倒的に多かった。体に染みついていまだに消えない学習だ。フィーネはクリスを抱かなかった。だからクリスは二年以上こういうことから遠ざかっていたのに、この体はなにも忘れていなかったらしい。
「へたくそ、め」
 めいっぱいの抵抗をこめて言ってやった。
「初めてなんだもの、仕方ないじゃない」
 苛立ったようすの未来は、クリスの乳房をおもいきり握り潰した。
 クリスは苦痛に顔をゆがめた。のけぞり、のどが鳴った。
 未来は意に介さず、そうやって強く握ったまま、乳頭をやわく咥えて、吸い上げた。
 きっとこれが、未来が響にしてみたかったことなのだろう。あるいは響にされてみたかったことなのだろう。クリスはそう思った。
 クリスはこの現実がいまだに信じられないでいる。
 小日向未来はいつだって清潔な香りをもっていた。その顔も、声も、言葉も、全部があたたかみとゆたかさと、それからなによりやさしさをもっていた。クリスにとってはそのはずだった、それがてんで違うものに豹変してしまっている。
「また泣いてる」
 上体を浮かせた未来が、クリスの顔をのぞきこんで、そう言った。
 クリスは目のあたりを腕でおおいかくした。
「水が、かってに流れてるだけだ」
「なにそれ」
 未来は笑った。それきり興味がうせたらしく、またクリスの首から下、腰あたりまでを、なめたり、吸ったり、あるいは本当に時々、くすぐったいくらい弱い手で撫でた。
「思ってたほどたのしくないのね、これ」
 むりやり抱いているくせに、文句を言ってくる。
「もっと下にいけば、おもしろいものがみられる」
「そうかしら。きもちわるいもの、の間違いじゃないの」
 いちいち音吐に棘を混ぜる。やはりこれは未来ではないような気がした。では、誰だというのだろう。未来でない者に抵抗もせずに抱かれているおのれは、救いようがないのではないかとクリスは思った。
 そのうちクリスの上半身に飽きたのか、未来は腰より下に移動してきた。
「おふろで、自分のとかは見たことあるけど、……」
 粘性のある息を吐いて、未来は片目を閉じた。もう片方の目も今にも閉じんばかりにゆがめ、ほそめた。
「グロ……」
「わるかったな」
 未来はちょっとのあいだ思案していたが、やがて、
「んー、目、つむりながらやってもいい?」
 クリスの答えを聞き入れる気などまるでないことを訊いてから、無造作に指を突っ込んだ。
「うあッ、あ、ああッ――」
 久しくなかった痛みにクリスは絶叫した。
「はっ――」
 未来はやはり無造作に指をうごかして、内部をひっかきまわしながら、また笑った。
「ははは、これ、クリスの声よね? ――うん、クリスの声にしか聞こえない。どう聞いてもクリスの声だ。……」
 そう言った未来は、突如けたたましい笑声をはなった。
 ――狂人め!
 クリスは心の中で叫んで、口からは悲鳴を吐き出しつづけた。
 未来の笑声もとまらない。
 狂ったふたつの声がまざりあって、夜の空気にぶちまかれていった。

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