未来は鳥のさえずる声で目を覚ました。
まぶたが異様に重く感じられ、なかなかひらかれなかった。
ひらいた時、強烈な光が目にとびこんできて、結局またとじ、何度かまばたきをしたあと、未来はようやく身を起こして覚醒した。
体のあちこちが痛い。
それはそうだろう、地面の上に直接寝ころがって野宿したのだから。すでに完全に眠り落ちていたクリスにてまどりながら服を着せると、自分も着直して、やっぱりコートを持ってくればよかったと、あまりの寒さの中でそんな後悔をしながら眠りについたのが、生まれて初めての情事の、その事後のことだった。
眠りつく直前には疲れきった重い体をひきずってでもヘリに戻ればよかった、という考えでいっぱいになったが、それを実行に移せない程度に体も脳も疲弊していた。
どうにも関節がおさまらない感じがして、未来は首を腕をまわして調子をととのえた。
見下ろすと、クリスはまだ眠っていた。目のまわりに涙のこびりついた跡がある。唇のまわりには唾液の跡がある。
泣いて、痛がって、苦しげに叫ぶだけで、全然気持ちよさそうではなかった。未来も未来でこれがまるでたのしくもなければ、気持ちよくもなかった。
こんなものが、響に求めて求められなかった熱情と憧れの正体なのかと思うと、未来の胸裡には、やはり後悔と、それからかすかな罪悪感に、あとはおびただしい失望があるだけだった。
未来は盛大に嘆息した。
その息が落ちきる前に、クリスが寝返りをうって、未来に背を見せるかっこうになった。
幼い横顔が未来の目に映った。髪のすきまから、かたちのよい耳がのぞかれた。未来は急に、その耳がむしょうに愛おしく恋しく思われてきて、指でそっとなぞった。やわらかい感触が指にかよってきた。
くすぐったげに、まつげがすこしうごいた。起きるけはいはない。
未来はクリスを起こすのはしないことにして、彼女が起きだすのを待つことにした。
膝を掻き抱いて、身を縮ませる。夜も寒かったが朝も寒い。
となりで眠りつづけるクリスに、わるいことをした、とは、未来はなるたけ思わないようにした。そうでなければ、自分の企みはとても遂げられないと思った。
最初は拒否しても結局は受け入れてしまうクリスの自分への恋心に、はっきり言えば未来はつけこみ、利用しようとした。クリスに謝る気はないが、傾城の悪女にでもなった気分があって、これで響にどう顔向けしたものか、そう思うと未来の口もとに苦い笑いがのぼってきた。
「怒られるかもしれないよ」
切歌の言葉が、まるで切歌本人が目の前に立っていて言ってるかのように、たしかな声量でもって聞こえた。
響が私のことを怒るわけないと一笑に付したくなる一方で、切歌の言うとおりに猛然と未来を怒る響の姿が、ぼんやりとした輪郭をともなって未来の頭の中に浮かんできた。
未来は体を動かして、あたりを見渡した。花の一輪でもないかと思った。花占いでもして、怒るか、怒らないか、占おうと思いついたのである。しかし花は見つからなかった。
こどもみたいなことをしたくなった自分がばらかしくなった未来は、また体を縮ませた。
唐突に胸に走った言葉があったので、ためしに呟いてみた。
「愛してる」
口から出してみて、その言葉のそらぞらしさにゾッとした。虫唾が走った、とも言えた。おそらくは響には一度も言ったことのない言葉で、昨日クリスに何度となく言った言葉だ。気づいた瞬間、未来はおそれおののいた。
響を愛していることなんて、わざわざ口にするまでもない当然のことだ。未来だけでなく響のほうもそう思っていた。だから、言う必要なんてなかった。未来も響に愛しているなどと言われたことはない。それだけのことのはずなのに、響が生きているうちに一度として伝えられていなかった事実に、未来は恐怖した。
それほどの言葉を、響にはまったく言わなかったそれを、なんの愛情もこもらない声でたやすくクリスに言いはなったことにも、未来は同じように恐怖した。
未来は自分の肉体からまったく血の気が引いていくのを感じた。
周りの木も土も草も鳥も虫も、その全部の色が消えて、命は残らず死んだように見えた。自分だけがこの天地のはざまに生きていると思った。孤独の恐怖が未来を襲った。
恐慌めいた未来はそこから逃げだそうとして、まだ生きているかもしれない、まだ眠ったままのクリスの体をあおむけにして、顔に耳を近づけて、その呼吸のあるなしを確認した。
ちいさな息が未来の耳にかかった。
(生きてる)
未来は心の底から安堵した。
途端に、滂沱と涙が流れた。これは安心したせいではなくて、かなしくて泣いているのだった。生きているのはクリスだ。呼吸をしているのはクリスだ。今未来の耳にかかったそのちいさな息はクリスのものだ。それがかなしかった。クリスは所詮雪音クリスでしかないということが、この時の未来を残酷に冷徹にうちのめした。
「み、く――」
突然、名を呼ばれた。
未来はハッとして顔をあげた。
もちろん響はそこにはいない。響が未来の名を呼ぶはずがない。
幻聴かと思った。
だが、そうではなかった。
未来の名はたしかに呼ばれたのだ。
未来は視線を落とした。
あいかわらず眠っているクリスがいる。
(寝言……なの?)
すこし体をゆすってみたが反応はない。狸寝入りでもなさそうで、やはり寝言でこちらの名を言ったのだろうか。
クリスは人の名を呼ばない。唯一フィーネだけをその名で呼んでいた。響のことを「バカ」と呼び、弦十郎を「オッサン」と呼び、それ以外はだいたい「お前」か「あんた」で一緒くたにされていた。未来のことも「お前」と呼んでいた。
響の死後しばらくして、響の名を言うようになった。未来が響と言うたびに、クリスも響と言った。まるでその名が現世から消えてしまうのを拒むかのように、手にしっかりつかんで離さんとしているかのように。それは彼女なりの未来への愛情表現かもしれなかったし、単純に響への友情かもしれなかった。
クリスは今なにかの夢を見ているのだろうか。未来は想像した。クリスの夢に未来が出ていて、クリスはそこでは未来の名を呼んでいるのだろうか。あるいはふだん未来のいないところで、ひとり恋慕している女の名を愛おしげに呟いているのだろうか。本人に向かっては、けして言えぬその名を。
未来の唇がふるえだした。そのふるえをとめるために、未来は下唇を噛んだ。ふるえはとまらない。かすかな痛みが生じたが未来はかまわなかった。唇はやがていびつに笑いのかたちをつくりはじめた。
「趣味、わるいなあ、本当に……。私のことなんか、好きになっちゃって……」
未来は弱々しく笑った。その笑声には嘲りがあった。自嘲である。
昨夜とは逆に今度は未来の涙がその体を離れて、クリスのほうへと落ちていった。クリスの顔に未来の涙が落ちて、流れ、地に沈んでいった。
そのためだろうか、未来は夢に落ちるクリスが泣いていることに気づかなかった。もしクリスの目尻に浮かぶ涙を見ても、たぶん自分のものが落ちたせいだと思っただろう。
やがて未来の心身は誰に対するのかわからない、怒りとも哀しみともつかない、あるいは憎しみのような感情で染まりはじめた。それらは一度体を染めぬくと今度は未来の腹のあたりに集束してとぐろを巻き、未来の喉を通過して外界に放出された。
未来は嗚咽がとまらなくなった。
ずいぶんと久しぶりに声を出して泣いた。
さすがに、この時点で、クリスの目は覚めた。
未来とクリスは互いにぎょっとした。未来はクリスが起きたのに驚いて、クリスは未来が泣いているのに驚いたのだった。
クリスは慌てて起き上がり、後ずさって未来から離れ、背を向けてしまった。涙を見せまいとしたのか、涙を見るまいとしたのか、クリスはたくさんに濡れた顔を服で拭った。
「寝言」
未来は言った。
「寝言で、私の名前呼んでいたわ」
「あっ、わっ――」
クリスの肩がびくりと上下した。ほんのすこし首をまわして、未来のほうをのぞきこんで、目が合うと、また首をひっこめた。
「直接呼んでくれたらいいのに」
クリスは無言でゆるゆると首を振った。
あぐらをかいて、背を丸めているクリスが今どんな顔をしているのか、未来にはわからない。照れて赤くなっているかもしれないし、昨晩のことを思い出すか、寝言を聞かれたことについて、未来に怯えて青ざめているかもしれない。
かぎりないほどにクリスの背中は未来の目にちいさく見えた。さきほどクリスの耳を見た時と同じような、やはり愛おしく恋しい気持ちが湧いてきた。それはクリスのちいさな背中に対してのみ湧いた感情で、クリスそのものにではないという自覚が未来にはあった。とにかく未来は、クリスのその背中を抱き締めてやりたくなって仕方がなかった。
未来はクリスに近づき、背中から抱き締めた。
毎度のことながらクリスの鼓動はまたたくまで高鳴り、体温は上昇した。
「愛してる」
未来はまた心にもないことを簡単に口にした。どういうことか、クリスに対してはこの言葉がなめらかに口から出る。心にもないことだから、ためらいもなく言えるのだと未来は思った。
「嘘つくな」
「本当よ。この世の誰より、クリスのことを愛しているわ」
未来は腕に力をこめた。
クリスのかたちのよい耳にぴたりと唇をつけ、ささやくように、「愛している」と言った。
「離してくれ」
「離してみたら?」
「お前、本当は性格わるかったんだな」
声がふるえている。彼女はまた泣いているらしかった。泣き虫クリス、と心の中でだけ、そう呟いた。
「品行方正の優等生って評判なんだけど」
「なんだそりゃ、学校の先生からのか」
「うん」
「そとづらはいいんだな」
「まんまと騙されたわね、クリス」
「違うよ」
そこだけは、ふるえのない声で言った。
ひとたび恋などというものに陥ってしまえば、どんな勇敢な戦士も形無しになると未来は思った。命懸けでノイズと戦っている彼女の、酷く臆病者の顔を、未来はそのちいさな体から感じた。
「そろそろ、戻らない、と、……」
クリスは未来を振り払って立ち上がった。きしむ体をぎこちなく動かして、さあ行こう、と言った。
未来も立った。
クリスは背を向けたままこちらを見ずに歩きだした。
「クリスー」
名前を呼んでみる。
「なんだよ」
「ちょっとこっち向いて」
「………」
クリスは答えない。
横に並んでのぞきこもうとしたら、おもいきり首を反対方向に回され、歩行速度を上げられた。
「クリス」
「なんだ」
「名前呼んで」
「それは、できない」
しない、とも、いやだ、ともクリスは言わなかった。できない、と言ったその底意にあるものとは、なんだろうか。未来には量りかねた。ただ恥ずかしがって呼べないわけではない、それは確実であるように思われた。できない、と言ったその裏にはもっとうしろ暗い感情があるのだと推測された。
朝の冷気の爽やかな林の中をふたりは歩いてゆく。
けっこうな時間を食っている。
「思ってたより、ヘリから離れちゃってたね」
「そうかな」
クリスの感覚ではそうでもないようだった。
「ねえクリス」
「なんだよ」
「愛してる」
クリスの足がとまった。
未来の足はクリスを追い越した。振り返って、正面に向かい合う。
クリスはうつむいている。
表情はよく読みとれない。
「嘘を言うな」
「嘘じゃないわ。クリスは私のことを信じてくれないの?」
未来はそうやって姑息な言い方をした。
「信じたいけど、それだけは信じられないし、信じちゃいけないと思う」
ぼそりと地に落とされようとした言葉を未来は拾いあげて、
「どうして?」
「だって、お前は、あいつのこと好きだから、……」
「そうね」
未来はそれは否定しなかった。
「でも、愛しているから。だから、私の全部はクリスにあげる。私の命も体も全部。クリス、あのね、だから――」
クリスの顔があがった。泣きはらしたはれぼったい顔があった。
「私のこと守って」
クリスは押し黙った。視線を逸らしたくてたまらないといった表情をしながら、それでもまっすぐに未来を見つめることをやめなかった。
「守りたい」
クリスはうなるように想いを吐き出した。
「うん。お願い」
今度は未来がクリスに背を向けて、歩きだした。
クリスは黙ってついてきた。
どうせ、最初はいやがっても、この子は最終的には逆らわないと、未来にはわかっている。そういう子なのだとわかっている。なぜならクリスは未来に恋をしているからだ。だから、必死になって守るだろう。未来のやろうとしていることをとめもせず、ただ守るだろう。
それを思うと響が未来に向けてきた無限の愛情は、けして恋に分類されるものではなかったのだろうと、未来は今になってその感情の正体を見極めたような気がした。
未来は響の快晴のような澄みきった笑顔が懐かしくなった。
自分は目的を遂げる遂げないに関わらず、死を得ることがあるのだろうか。そうはさせまいと、クリスはその死を掠め取っておのれの死とするだろうか。
今後ろを歩いている少女の名が、立花響、だったとしたら、どんな言葉のやりとりをしていただろうか、そんな妄想をしようとして、未来は自分の未練がましさを笑った。響が生きていれば、そもそもこんな時間にこんなところを歩いてなどいないのに。
「愛してる」
未来は誰にともなく言った。その声はクリスにはとどかなかった。
できることなら響に会って、直接そう伝えたいと思った。
そのためには死ななければならないが、それはできないから、未来は他の方法をさがす必要がある。死ぬ気で生きてさがしつづければ、いつかはその方法を見つけられるだろうか?
「愛してる!」
未来は叫んだ。
それに反応したわけではあるまいが、にわかに風が起こって、葉がざわめいた。クリスの反応は未来にはわからない、見えない。
「クリスのこと、愛してるから、この世の誰よりも」
未来はまた言った。
その声に今までと違う温度があったことに気づいたのだろうか、クリスはそれを嘘だとは断じなかった。
「あの世とこの世の総合ランキングだと、あたしは何番目なんだ」
そんな軽口が未来の背に聞こえてきた。
「二番目かな」
「ちぇ、だろうと思った!」
クリスの声には軽快さがある。
恋をするとどんな勇敢な戦士も形無しになると、未来はまた思った。
未来の声が明るいものだから、彼女の気持ちも明るくなったのだろう。性格の単純さは、案外響といい勝負なのかもしれない。
未来はようやく本気で、雪音クリスという少女のことを、その全身と心とを愛おしく恋しく思いはじめた。
だから未来は心の中で、クリスに謝罪した。ごめんなさい、と唇でそのかたちをつくって、言葉は胸におしとどめた。
きっと彼女はまた未来のために泣くことになるだろう。
そうしてその泣き顔を見ても、その時自分はどうすることもできないだろうと、未来にはわかっていた。
ヘリに戻れば朝食が準備されているだろう。
それがすんだあと、未来はすでに一度ウェルにいざなわれてその目で見た、あの透明な巨大な、そして緑色の液体で満たされたカプセルのようなものの中に入る。
為すべきことは決まっている。だが、それを為す時に自分がどうなっているのか、未来にはとんと見当がつかなかった。
――怒られるかもしれないよ。
切歌の真剣な声がまた聞こえてきた。
怒らせておけばいい、と未来はその幻の声に言った。
――こいつまた泣いちゃうよ。
言われたおぼえのない切歌の声が聞こえてきた。
泣かせておけばいい、と未来はまたその幻の声に言った。
――なにせ私は、性格のわるい女なのだから。
自嘲するように笑った声は、風にはこばれて誰のもとにも、未来のもとにもとどかなかった。