記憶を求めて

 晴天に鋭い雨が絶え間なく降りそそいでいる。
 太陽の光を乱反射して白くかがやく海の上を、それ以上に強烈な一筋の青い光が疾走している。
 天羽々斬が海上に点在する鉄の地を蹴って天を駆けた。
 人間の目ではまともに捉えられず、ただ艦船のシステムだけが機械的に捕捉した影をモニタに映し出した。
 糸を虚空に引きながら海上を駆け巡る剣刃の、そこだけが違う速度の時間が流れているかのように、その名を渾身にして細い風の音を鳴らしていった、そこには一閃されたノイズ群の炭化した痕跡だけがあった。
 風鳴翼がゆく――。
 頭の激痛にさいなむクリスは、まだそれを知らない。
 クリスは両手で体を抱きかかえ、うずくまって、床に額をこすりつけた。幾重も顰みをつくり、目を堅く閉じ、苦痛に耐えようとした。脂汗がにじむのがわかる。
 呻き声を発するたびに唇を伝う唾液が玉になって床に落ちた。
「クリス――」
 冷えた声と席を立つ音が聞こえた。
 だいじょうぶだ、そう言って立ち上がりたかったが、クリスの額は床に接着剤で貼り付けられみたいにびくとも離れなかった。体を抱えていた腕をほどいて床に手をつけて力を入れたが、やはり立てない。
 未来が傍らにしゃがみこんで、クリスの肩に手を置いた。
「立てる?」
 と未来は訊いてきた。立てる、とは言えないクリスは、呻き声ばかり吐き出す口から、かろうじて、
「た、つ」
 という二つの音を搾り出した。
 未来に上体を抱え起こされて、額はあっさりと床から離れた。未来の肩に頭を乗せさせられた。逃し場所をうしなったせいだろうか、痛みが増したようにクリスには感じられた。
 クリスはすぐに頭をずりさげて、未来の肩に額をすりつけた。歯を食いしばって声とも音ともつかない呻きをもらしながら、時々荒い息を吐いた。なにをどうすれば激痛がおさまるのかわからないが、これはと思いついたことは実行した。
「つかまって」
 未来に言われたので素直に腕にしがみつくと、ゆっくりとだが体を持ち上げられ、ようやくクリスは未来に体重の大半をあずけながらも、立つことができた。未来が腰を抱えていなければ、すぐにも膝が落ちていたことだろう。
「痛みはどう?」
「ちょっと、マシになってきた」
 クリスは事実とはまるで逆のことを言った。実際には痛みはますます激しくなっていた。が、口に出してそう言ってみるとふしぎに本当に痛みがすこしやわらいできたような気がした。あいかわらず頭痛の酷いことは酷いが、その頭の中はみょうにクリアーになって、言ってしまえば耐えられる種類の痛みに変じた。
 クリスは未来から体を離して、自力で立ってみせた。
「もうだいじょうぶだ。平気だ」
 とクリスは笑って言った。
「顔歪んでる、涙目、汗凄い、息荒い」
 安心させたくて笑顔をつくったつもりだったが、未来にはそう見えなかったらしい。
「でもだいじょうぶだから」
 言ってみて自分の言葉の説得力のなさにクリスは呆れた。これが響であればこうはならないだろうに、とクリスは思ったが、あるいは未来のほうも同じことを思っていたかもしれない。
(ああ、まただ。もうやめようって決めたのに)
 クリスはクリス自身でしかないのだ。自分にとっても未来にとってもそれ以外の何者にもなれない。響になれるはずもない。取って代わることも穴を埋めることもできない。わかりきっているのに、いまだに心のどこかに、どこかで響のかつていた席に座りたがっている自分と、響に対抗意識を抱く自分がいる。
(憑かれてんのかな)
 一瞬そんな考えがクリスの胸をよぎった。が、すぐに否定した。妄想だ。なにもかもクリスの妄想にすぎない。いもしない立花響の亡霊をかってに作り上げているだけなのだ。
 クリスは妄想を振り払おうと数度首を振って、まばたきをした。そうすると、またすこし痛みがやわらいだ気がした。
「本当に、もうだいじょうぶだ」
 今度はちゃんと言えたと思った。
「そう」
 いやにそっけない返事だった。
 それならもうかまわないだろうとでも言いたげに、未来はまた椅子に腰かけた。
 頭痛がそのまま胸にまで降りてきたような感覚があった。かなしいともさびしいとも言える感傷の痛みだった。
 初めてクリスの胸に未来と一緒にいたくないという気持ちが湧いてきた。昨夜むりやり抱かれている時にさえならなかった気持ちだった。
「あいつら助けてくるよ」
 とクリスは言った。
 未来はなんの反応もみせなかった。
 クリスはブリーフィングルームを出た。
 泣きたくなるのを必死で堪えて走った。

 雨は降りつづけている。
 切歌と調はすでに翼との交戦状態に入っている。
 米艦の甲板上で一、二合刃をぶつけては後退するといったことを繰り返していた。
 ふたりがかりでも押し切れない、どころの話ではない、誰の目にもあきらかに切歌と調は、翼に押されていた。
 エアキャリアから出撃したクリスは、直接切歌らの救援にはゆかず、ノイズの殲滅が完了していると思われるうちもっとも近くの僚艦に降り立ち、艦橋を登った。クリスの視界の範囲に兵の姿は見えない。想像したものに対してどういう感情を湧かすのが正解なのか、クリスにはわからなかった。
 ギアを展開した以上クリスの居場所はすでに翼に知られているだろうが、切歌と調の息がつづいているうちは、翼の意識が完全にこちらに向けられることはないはずだ、とクリスは意識的に楽観した。なにはともあれ、断続的に膠着状態が発生しているのはありがたい。
 痛みのおさまらない頭をフル回転させて、いかにすれば翼を倒せるのかとあれこれ考えるようなことを、クリスはしなかった。一発撃って当たればよし、当たらなければそれで終わる。翼相手に「戦う」という選択肢は不要だ。スナイプ以外の手段は端からクリスの頭にはない。当たっても効かない場合も終わる。ありったけの力を一発に込めて撃つほかない。
 また頭痛が酷くなってきた。
 痛みをまぎらわせようとしたのか、クリスは自然にちいさな声で歌を口ずさみはじめた。はるか昔の記憶のようで、実際はそうでもない、フィーネと暮らしていた頃、彼女が気まぐれに、ごくたまに歌っていた歌だ。だから歌詞もメロディもほとんどうろおぼえで、かなりの部分を即興でおぎなうことになった。
 歌いながら手の中になぜか一挺の古めかしいフリントロック式の赤と白に着色されたマスケット銃をかたちづくっていた。これもいつかのどこかの記憶を無意識に引っ張りだした結果かもしれない。
 そういえば後見人の弦十郎からは映画DVDをよく観させられたような気がする。クリスくんならこれがいいな、と勧められたのはガンアクション映画が大半であり、カンフー映画ばかり観ている響とはだいぶん趣が違った。あまりわかっていないが翼に勧めているのはたぶん剣戟映画だろう。
 映画と言えばだいたい邸のほうで観ていて、映画館に観に行ったのはほんの数回しかない。その数回はほとんど響と未来のふたりから誘われて行ったものであり、たまに翼もついてきた。ほとんどではないほうは、こどもむけの映画を両親と観に行ったかすかな想い出と、フィーネがなにを考えたのかショッピングモール内のちいさな映画館にクリスを連れていって一緒に観た、よくわからないスプラッタ映画のチープなCGの記憶があるだけだ。――もしかしたら、あれは櫻井了子の趣味だったのだろうか。クリスは弾込をしながら、共に暮らしていたにも関わらずまったく知らない存在のまま死んでいった日本人女性のことを考えた。
 クリスは首をひねった。どういうことか過去のことばかりに意識が飛ぶ。そのために自分がなぜここにいるのか忘れそうになる。それからまた、どういうわけか泣きたくもなってしまった、その涙をやはりどういうわけか我慢する気になれず、流すがままにさせた。
 その涙を指で切ってから、クリスはおもむろに銃を構えた。
 風鳴翼がその先にいる。
 構えてから何秒後に引き金を引いたのかはわからない。あるいは何分後だったかもしれない。銃声は弦十郎と一緒に観た映画のSEよりも重く低く聞こえた。
 青い影がゆらりと傾いて、甲板に伏した。
 切歌に通信を入れる。
〈やったデスか!?〉
「こっちでわかるわけないだろ、確認してくれ」
 言ってはまずいことを切歌が言ったような気がしてならない。不安と焦燥で胸がちりちりと焼け付くようだった。喉が渇いて仕方がない。頭痛がまたすこし、悪化した。季節は冬で、ここは海上なのに、やたらに体が熱い。
〈ちかづくのこわいなあ……〉
 言いながら切歌は翼に一歩また一歩と接近していった。
「首刈り鎌持ってるんだ、頼むぜ死神」
〈えーがの登場キャラみたいな大仰なセリフやめて不吉すぎるデス〉
「言えたクチかよ」
 噴き出す汗を拭って、クリスは言い返した。
 あっちも映画、こっちも映画。なんて暢気な会話をしているのだろう。ここは戦場のはずなのに。
 突然、首の通信機から切歌の名を叫ぶ調の声が聞こえた。
「――あ?」
 キンと甲高い金属音がした。
 次の瞬間、クリスの肉体が、その生命体としての存在感をうしない、ただの物体として、あっけなく艦橋から落下していった。
 空に赤と黒の飛沫が散っているのがおぼろげに見えた。それが自分の首から離脱してゆく血と枷の破片であることに、クリスが気づくことはなかった。
「雪音クリス、暁切歌、月読調、以上三名の身柄の確保をお願いします。こちらはひきつづきF.I.S.エアキャリアの捕獲および小日向未来の捜索に向かいます。――」
 ただひとり戦場に立つ翼は、風だけをそこに残して、悠然と次の行動に身を移していった。

 気がつくとクリスはどこかの家の庭に立っていた。
 すでに夜の帳が降りていて、ただ窓から溢れ出る光がクリスの周囲を照らしていた。
 家の中には家族らしき人たちがいる。若い男性と女性、それにちいさな女の子だ。黒い光沢のあるグランドピアノが置かれている。
 女性はピアノを弾いているようだった。男性はソファにゆったりと腰かけ、膝の上に女の子を乗せている。女の子は歌っているようだった。楽しそうに歌っている。両親と思しきふたりは、娘をいつくしむようなおだやかな笑みをたたえている。
 それが自分の家族だとわかった瞬間、窓に切り取られたその映像は消えた。
 窓枠の中でスライドショーのようなものが展開されていった。自宅での想い出のあとは、中南米を家族で渡り歩いている時の想い出が映し出された。窓に夥しい量の血がぶちまけられると、床のあたりにはふたつの無惨な死体が転がっていた。
 ゲリラ組織に拉致され、朝から夜まで毎日のように男連中に嬲られる、それが過ぎるとフィーネの邸宅が映った。はっきりとおぼえている。初めてフィーネに邸に連れてこられた日、与えられた部屋で、彼女の言ったあの言葉だ。音はないが唇の動きを追うだけでもフィーネがクリスになにを言っているのかわかった。そうだ、口癖のように彼女は言っていた。
(痛みだけが、――……)
 口に出してそれを言おうした時、クリスは猛烈な頭痛に襲われ、青い芝生の上に倒れ込んだ。両手で頭をおさえて痛みに耐えようとするが、どうしようもない酷い痛みに、クリスはさしたる抵抗もできずに意識を奪いとられた。
 目が覚めると天井があった。フィーネの邸とはあきらかに別物だとわかる、木目のみえる天井だ。
 ――ああ!
 クリスはやにわに体を起こした。この状況を知っている。はっきりと今でも思い出せる。
 傍らに座る制服の女の子が発する言葉も知っている。
「よかった。目が覚めたのね」
 小日向未来がそこにいた。
 着がえは上の体操着一枚で下半身が丸裸なのはおぼえている。あの時のようにクリスは布団から出たりはしなかった。
 それ以外はおおむね記憶どおりの展開をなぞった。
 やさしいんだね、そう言われた時に湧いた感情の正体は今もよくわからない。
 友達になりたい、そう言われた時に湧いた感情の正体も、やはりまだよくわかってない。
 きっと嬉しかったんだろうと当時を思い返してみても、それが正解かどうかは結局は不明なのだ。
 クリスと友達になりたい、と未来が初めて言ってくれた、クリスはなんら答えを返さずに、握ってくれた手をふりほどいて逃げ出した。それでも未来はクリスと友達になってくれた。
 あの時と同じことを、また未来は言った。
「もしもクリスがいいのなら、私はクリスと友達になりたい」
 そう言って、同じように手を握ってくれた。
 答え方はわかっているはずなのに、クリスはそれを口に出したくなかった。自分も友達になりたいとは言えなかった。それは今のクリスの本心とはかけ離れたものだった。
 目の前にいる未来はきっと夢か幻だ。本物ではない。
 それでもクリスの手に触れてくる彼女の手の感触は、かつてとなんら変わりなく、あたたかくやさしいものだった。
 その手を握りかえし、自分の体に引き寄せて、おもいきり抱き締めたいとクリスは思った。そうやってこの部屋から脱出して、どこか遠い、立花響もフィーネも、誰もいない世界に行って、ふたりきりで静かに暮らしたいと思った。
 クリスは未来を抱き留めた。
 未来は抵抗しなかった。驚きさえしなかった。まるでクリスがそうするのをわかっていたかのようだった。
「愛してる」
 クリスは言った。それには答えないで、未来はクリスの背に手をまわした。
「愛してほしい」
 クリスはまた言った。
「響よりも、誰よりも、あたしのことを」
「ごめんね」
 未来の返事は短くあっけなかった。
 クリスは笑いたくなった。笑いながら泣きたくなった。夢なのに、クリスの思い通りにいかない未来に、ああやっぱり強いんじゃないか、そう思った。
「覚めたくないなあ」
 未来を抱き締めたままクリスはぼやいた。
「起きないと駄目よ。まだ約束守ってもらってないじゃない」
「ごめんもうむりだ。あたしやられちゃったから」
 そう言うと、未来は、翼さん強いものね、と言って、
「負けて倒れたなら、起き上がってまた戦って」
「きびしいなあ……」
 クリスは泣いてしまった。泣きながら笑って、笑いながら泣いた。
「あたしにできることまだあるのか。あたしはまだ、……」
「まだ……なに?」
「未来のこと守れる?」
「クリスのがんばりしだいよ」
「やっぱりきびしい――」
 クリスはもはや笑うしかなかった。
「わかった、起きる。そんでがんばる」
 とクリスは言って、未来の体を離した。
「また泣いてる」
 未来に指摘された。
「泣いてるの見せるのはこれが初めてのはずだけどな」
 と、クリスはとぼけてみせた。
 未来はゆるく首を振った。
「ううん、初めて会った時から、クリスは泣いてたわ」
「もしかして寝てるあいだにか」
「さあ、ね」
 今度は未来がとぼけた。
 おだやかな笑声がふたりをつつみはじめた。
 夢がまもなく終わろうとしている。

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