がらくたの恋

 誰かの声がクリスの耳の裏をたたいた。
 つつみこむようなやわらかな手つきで抱き起こされる感触があった。
 クリスは目を覚ました。
 首をめぐらして、あたりを見渡した。
 誰もいなかった。
 では、誰がクリスの体を起こしたのだろうか。
「いって――」
 首にかすかな痛みがあった。手でさぐってみると、どうやら包帯を巻かれているようだった。そういえば撃たれたのか、と気をうしなう前のことを思い出してみる。
 見覚えのあるようでないような景色がひろがっている。
(仮説本部か、ここ)
 空気がそう言っているように感じられた。討ち取ったかと思った翼にまんまとやられて、そのままとっつかまったようである。いや、元を辿れば「フィーネ」に捕らわれていたのだから、保護されたというべきなのだろうか。
「いやいやそれは都合がよすぎる」
 否定してから頭を掻いた。
「あ……」
 ふと視線を落とすと、忘れようのない鈍い銀色にかがやきがあった。
「ソロモンの、杖……」
 クリスは愕然とした。持ち手のところにメモ書きが挟まれている。引っこ抜いて読むと、
 ――万事、懸念無用。委細は司令室にて説明の事。なおイチイバルは私が預かっているので、返して欲しくば追って来い。不要なれば寝ていろ。風鳴翼
 と、いやに見事な筆路で書かれていた。エアキャリアを追跡していた翼がソロモンの杖を奪還し、一時帰投してしたためたものだった。
(あいつ、やりやあがった!)
 クリスは自分の情けなさを嘆くと同時に、翼のあまりの手際のよさに呆れた。
 ソロモンの杖はクリスが起動させたものだし、そういう因縁から奪還するのは自分に課せられたかならず果たすべき使命だと思っていた。だというのに、その使命が寝ているあいだに、クリスの感覚からするといとも簡単に消えてしまった。なんという人間がいたものか。
 クリスは次に猛烈に腹が立ってきた。ソロモンの杖については、ひとまず素直に頼りがいのある先輩に感謝すればよい。それはそれとしてイチイバルだ。武装解除は敗残者の義務である。取り上げられて当然だろう。が、この書き方はどうだろう、いかにもこちらを挑発しているようで、クリスには気に入らない。
(追って来いというなら追ってやる)
 クリスは気概を新たにしてベッドから飛び出た。
 病衣のまま、裸足で司令室に突入するや開口一番、
「オッサン、ハッチ開けてくれ!」
 と、叫んだ。が、そこに弦十郎はいなかった。
「あら、クリスちゃん、目が覚めたのね。傷の具合はどう?」
 と、友里が振り向いて訊いてきた。
「オッサンは?」
「司令なら緒川さんや他の職員たちと一緒に出てるよ。米兵の救助活動のためだね。ソロモン取り替えしたからって司令官が出ることないのに、まあ、あの司令だから」
 藤尭が呆れ気味に答えた。
「いないのか。まあいいや、ハッチ開けてくれ、あたしも出る」
「元気そうでなによりだけど、やんちゃ過ぎると傷に障るよ」
「ひとまず落ち着いてクリスちゃん。かなり、いやなことになってるから」
 友里にそう言われて、クリスは押し黙った。
 そろりと翼のメモをとりだして、
「これ、説明してくれるって書いてるけど……」
 と友里にメモをみせた。が、友里は詳しいことは説明せず、
「モニタを見て」
 とクリスにうながした。
 クリスは言われたとおり視線をそちらに向けた。
 モニタが映し出す光景がクリスの目に飛び込んできた。
「現在、天羽々斬が神獣鏡と交戦中だけれど、神獣鏡の装者は未来ちゃんとみて、まず間違いない」
 と藤尭が説明した。
 クリスの呼吸が一瞬とまった。
 たしかにそこには未来が映っていた。
 武器を手にして翼と戦っていた。
 空気が針のようにクリスの全身に突き刺さってくる。首の傷口に血が集まって沸騰しているかのように熱い。頭痛の次は首か。唾棄したくなったクリスは、かわりに生唾を呑み込んだ。ごくりと喉が鳴る。首の痛みがすこし強くなった。
 わかりきっていたことを目の当たりにすることで、ようやく腹に理解がとどいたといった感覚だった。ウェルは人間相手に消費するものではない、と言っていたが、戦力がごっそりと無くなって、おそらくはなんのためらいもなく残る未来を投下したのだろう。
(あの偽フィーネは、これでもまだ出られないのか)
 さすがにクリスは怒りたくなった。マリアが戦えばいい、マリアに戦わせればいいではないかと思った。
「……行ってくる。イチイバル受け取りに行くから準備しとけって通信入れといて」
 クリスはモニタから背を向けた。痛ましい未来の姿を長々と見ていたくなかった気持ちがはたらいたせいだが、これからその未来のもとへ行こうというのだから、ここで勇気のないことをしても意味がなかった。どのみちその目で見なくてはならないのだ。全身全霊で勇気を発揮しなければならない人生の切所がここだろう。
「むりはしないでね」
 友里が言うと、
「神獣鏡には聖遺物由来の力を分解する性質がある。気をつけて……と言われても困るだろうが、とにかく気をつけてほしい」
 と藤尭が言った。
 クリスを当然の味方として扱っている言葉だった。
 ――ごめんなさい。
 とは、クリスは言えなかった。

 息が切れるのがバカみたいに早い。
 クリスはカタパルトを全力で走った。
 こんなことなら未来の朝練に付き合っているのだった。早々に脱落した過去の自分が今になってうらめしい。
 朝の走り込みも、満月の夜突然未来が走り出した時も、クリスは全然ついていけなかった。まるでおのれの想いなど、どうあがいても未来にはとどかないのだとでも言いたげに、未来の足は速く、クリスは遅かった。その華奢な背はどこまでも遠かった。
 クリスは舷側から海に飛び込んだ。イチイバルもネフシュタンも無いのだから、海洋での移動手段などほかにあるはずもなかった。
 空に光がまたたいている。
 その光を目指してクリスは泳いだ。
 外海の波は内海とは比較にならないほど高く激しい。
 水が刺すように冷たい。
 背中と手首から肘にかけて激痛がはしる。いまさらになって負傷箇所が首だけでないことを知った。
 それでもクリスは懸命に泳いだ。
 波に押し戻されたり、海水飲み込んでしまって咳き込んだりしながら、すこしずつだが、確実に未来のもとに近づいていった。
「アイテッ!」
 いきなりひたいを襲う衝撃があった。
 なにかが水面に落ちる音がした。
 まさかと思いその方向を見ると、ネックレスらしきものが浮かんでいた。
 もうこちらを視認したらしい。どこまで手際のいいことだ、あの風鳴翼というのは――クリスは何度呆れたらいいのかわからなかった。
 イチイバルのある方へ泳いでいった。
「あんにゃろめ、沈んじまったらどうすんだよ」
 途中で大声で文句を言うと、口の中にまた海水が入ってきた。
 しおっからいそれを吐き出し、手を伸ばして、イチイバルをつかんだ。
 聖詠を唱える。
 派手に水柱をあげて、クリスは空へと躍り出した。
 ある米艦の甲板にふたりの戦う影を見つけた。
 いやなタイミングでまた頭痛がしてきた。
 いいかげんにおさまってくれ、とは思わなかった。代わりに、動け、動け、とクリスは自分に命令した。あるいはまた、とどけ、とどけ、とも命令した。そう絶えず自分に命令しておかないと、このがらくたみたいな体はなにもしてくれないような気がしてならなかった。
 にわかに頭の中が真っ白になったような感覚にクリスは陥った。
 目の前も白くなったように見えた。
 脳の深いところで、なにかが烈しくきらめいた。

 クリスの左肩から右脇腹までを、刃が深々と通過した。
 倒れそうになったクリスの体を後ろから未来が抱きささえた。
「良い娘ね、クリス」
 ヘッドギアに閉ざされた彼女の表情はあきらかではないが、口もとは笑っている。
 フィーネが言っているような気が、クリスはした。
 クリスは力の抜けてゆく両足で甲板を踏みしめて自力で立とうとした。自分の血で未来が汚れるのがいやだった。が、体が言うことを聞いてくれない。手足の――とくに指先の――感覚は凍えたように小刻みに痙攣して自由が利かなかった。
 翼が攻撃の動作をみせたので、未来はクリスの指にかろうじてひっかかっていたハンドガンをむりやり持ち直させ、構えさせた。
 糸のような細い光の弾道が放たれると同時に、翼は斜め後方に飛んで距離をとった。
 衝撃でクリスの肩がはねた。
 痛みのあまりにクリスは長い絶叫を吐き出した。
「雪……、音……」
 クリスは翼の戸惑う声をこの時初めて聞いた気がした。
 どうやらオペレータのふたりと同じように、翼もまた人の好い誤解をクリスと、おそらくは未来に対してもしているようだった。だが、残念なことにそうではない。べつにクリスは未来を人質にとられたために、やむを得なく「フィーネ」の味方して、翼を攻撃したのではなかった。――まったく、頭ぶち抜かれそうになったのにお人好しな受け取り方してくれたもんだな、とクリスは思った。
 未来にしても、結局は自分の意志でこうなったにすぎない。選び取った道筋にたまたま「洗脳」というものが付属していただけの話だ。それだって未来は承知の上でやったのだ。その「洗脳」に未来の意志の介在を認めず、武装もろとも解除させようと剣を振ったのが翼で、それを邪魔をしたのがクリスだった。
 結果がこの有り様だった。
 翼は戸惑い、クリスは半死半生で、未来は笑っている。
 クリスが自分をかばったことに喜色を唇にあらわしている。
「良い娘よ、クリス」
 ずり落ちそうになるクリスの体を抱き上げると、未来は艶やかな唇を、苦痛に呻くクリスの耳もとに近づけて、甘い声で言った。
 意識があいまいになっているせいなのかなんなのか、原因はわからない。未来の声がクリスにはフィーネの声に聞こえてならなかった。フィーネに「良い娘」などと褒められたことなど一度もないはずなのに、そうとしか思えなかった。
「守ってくれてありがとう。おつかれさま。ゆっくり休んでいて」
「未来……」
 まだなにもしていない、そう言おうとしたが、声が出ない。この声はかんじんな時にいつもなにも言えなくなる。
 イチイバルのギアが神獣鏡の力で解除されてゆく。
「やめろ」
 クリスはそう言ったつもりだったが、もはや獣の呻き声と変わらなかった。
 ――夢の中でお前は、自分を守れるかどうかはクリスのがんばりしだいだと言ってくれたじゃあないか。あたしはまだなにもがんばっていないのに、どうしてそんなことを言うんだ。どうしてそんなことをするんだ。
「やめてくれ」
 クリスは今度もまた声とも音とも言えないような呻きを発した。
 未来は当然のように無視した。
「クリス、愛しているわ、誰よりも――」
 その声はもう、未来のものにもフィーネのものにも聞こえなかった。
 未来の腕がクリスの体をささえることをやめた。
 解放された体はたやすく甲板の上に倒れた。
 クリスは立ち上がろうとした。けして意識を手放すまいとした。血と涙と呻き声を垂れ流す以外には、てんからびくりとも動かない体を必死で動かそうとした。
 固く閉じた瞼の裏で白い光が忙しく明滅を繰り返している。それが頭の激痛と連動している。
 さあ、目を開けろ、そして立ち上がれ。クリスは自分の心に叫んだ。このがらくたみたいな体は、それでもまだがらくたそのものにはなっていないはずだ。クリスはそう信じて自身に言って聞かせた。――さあ立て、立って未来を守れ!
 おたけびをあげて、クリスは膝を立て起き上がった。
 両目をむりやりにこじ開ける。
 ちょうどその時だった。
 強烈な光の柱が天から海を貫いた。
 その光に目も脳も焼き切られるように、クリスは短い絶叫のあと、ついに完全にその意識を途切れさせた。

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