恩人依存症・三

 ちいさな寝息が居間のしじまに溶けている。
 朝食を食べ終えたクリスは、すぐに体を倒してそのまま眠ってしまった。
 結局未来はクリスと一緒に休むことになった。
 弦十郎は朝早くに仕事に出たが、翼は一限目を休んで、しばらく家に残っていた。響も残りたそうにしていたが、こちらは未来が尻を先に叩いて学校に行かせた。
「こたつで居眠りをする姿を見たのは久しぶりのことだ」
 家を出る前に翼はそう言って目をほそめた。彼女からするとその程度でも一歩前進したという感じらしい。未来は翼に礼を言われた。
 テレビをつけて起こしてしまうのも悪いので、現在未来はノートと教科書を広げ、自習して時間を過ごしている。
 未来は時々クリスのほうに目をやって、そのいやに幼い寝顔をそこに留めた。
 クリスは首から下をすっぽりこたつにおさめ、座布団を枕にして眠っている。今のところ表情などに異常はない。いやな夢は見ていないようだった。
 シャーペンをくるくる回しながら、さてこれからどうしたものかと未来は考える。
 狂気の原因ははっきりとしている。治療法はいたって単純だ。ようするにフィーネと再会させればよいのである。そうして共に暮らせるようになれば夢も自傷も簡単におさまるだろう。
 しかしこれは、まず実現不可能な手段だった。なにせフィーネがこの世にいない。そもそも彼女との共同生活はクリスにとって恐怖と苦痛にまみれたものだったはずだ。たとえ実現できるものであっても、そこにもう一度クリスを放り込む気には未来はなれない。いや、フィーネの最期を思えば、もしかしたらすこしくらいはクリスにやさしく接するかもしれないが、未来はそれでも首を振る。これは駄目だ。
 マリアに会えるように弦十郎に頼んでみる。これも思い付いた先から却下する。マリアが本当にフィーネだったなら、話はもっと簡単だったろう。
 夢に出てくる彼女は、フィーネを名乗りながら実はフィーネではなく、しかもフィーネとは違って、クリスを傷つけたり痛めつけたりしない、そのことはクリスにとって苦痛でしかない。
 マリアのことは未来も多少は知っている。異様にやさしいひとだった。そういう印象がなにを置いても強い。スカイタワーであの時未来に差し伸ばされたあの手は、クリスを虐待する手にはなりようがない。またなってもらっても困るのである。
 それからもうひとつ、脳裡できらめいた発想がある。これは弦十郎から話を聞いて最初に思い付いた方法である。われながら良案だと思うが、実行に移せば響もクリスも激怒しそうな気がした。その怒りを無視してつづけられるのかどうか。不安がないこともない。
 途中でやめれば状況はなお悪化するだろう。完遂できないくらいなら最初からやらないほうがよい。しかし、やってみようと未来は思った。ちょうど中学生の頃にたっぷりと貯めたありがたみのない経験値が、使い道もなく放置されていたところだ、このさいつかってしまおうと思った。
 未来はシャーペンの消しゴムの部分でクリスの頬をついた。ふっくらとしていたそれは以前よりも痩けているようだった。
「がんばってねクリス。私もがんばるから」
 そう言うと、未来はクリスの髪を梳いた。
「んう……」
 くすぐったげに呻いた唇は、かすかに笑っているように見えた。
 未来は自習を中断した。
 寝転がり、目をつむる。
 昼食の時間までクリスと一緒にまどろんでいようと思った。
 眠り落ちる前に、未来は頭の中でこれからすることを順番に並べた。まずは起きたらごはんを食べる。それから部屋の掃除をする。掃除をしたら買い物だ。クリスには留守番をさせて、カッターナイフを二本、揃いのものを買う。
 買って帰って来たらふたりで今後のことを話し合う。といってもクリスの意見は聞き入れる気はない。諒承されようがされまいが(十中八九とめられるだろうが)やると決めたかぎりはやる。それからすぐに実行する。
 未来は想像する。カッターナイフを持つ自分の手がある。刃を出す。包帯とガーゼを取った左手首に、その刃を当て、すうっと引く。赤い線が赤黒い線の上に重なる。血が流れる。するとクリスが――未来はそのあたりで眠りに落ちた。

 前日と同じように未来はクリスに押し倒された。
 未来の左手首はクリスに両手でがっちりと握りしめられている。その皮膚と皮膚のあいだには、とりはずしたばかりのガーゼがある。
(痛い)
 と未来はぼんやり天井をながめながら思った。カッターで切った傷よりちからいっぱい握られているほうが痛いような気がする。
 クリスの表情は見えない。未来の肩に鼻を押し付けて、彼女は泣いている。
 どくんどくんとおおきく脈打っている。心臓が、あるいは手首に通る血管が。
 未来の右手はクリスの背をなでている。なぐさめるつもりでそうしているのだが、泣かせた張本人がこんなことをやっているのだから、おかしなことだと未来は自分を笑った。
「やめてほしい?」
 未来は言った。
「クリスがやめるなら、私もやめる」
 クリスがひとつ、自らで傷をつくれば、未来もまた自らに傷をつくる。クリスが傷をつくることをやめれば、未来もまたやめる。クリスが手首を切れば未来も切り、クリスが腕を刺せば未来も腕を刺す。クリスが自傷をやめるまで、未来は延々それをつづけるつもりである。未来の体を思うのであれば、クリスはただちに自傷をやめればよい。たったそれだけで未来は自傷をやめる。
 だから未来は、
「べつにつづけてもいい。私はそれをとめやしない」
 と言った。
「つづけてもいいし、つづけなくてもいい。クリスの自由にして。私も自由にする。クリスと同じことする」
「そんなのは、だめだ」
「じゃあ、やめたら?」
 クリスは首を振った。
「できないんだ。できないから、だめなんだ。やめてくれ、こんなこと」
 泣き声と一緒にふるえた言葉を吐き出す。
「やめない。せっかくお揃いのカッターナイフ買ったんだから」
「なんで、なんで、こんなこと、するんだ」
 クリスはさらに強く未来の手を握り締めた。
「痛いよ、クリス」
「あたり、まえ、だ」
 しゃくりあげながらクリスは言う。
「そうじゃなくって、すごい、締め付けられて、い、痛い」
 未来はだんだん余裕がなくなってきた。手首の痛みがしゃれにならない。
「ちょっと、クリス、離して、痛い、ほんとに痛い」
「離したら、また、切るんだろ」
「うん、切る」
「だめだ」
「ええー」
 未来は困った。クリスはますます力を入れてくる。ぎちぎちと骨のきしむような音が鳴っている気がする。
「クリス、おねがい、離して、これ折れる、折れちゃうって」
「切るから、だめだ。切らないなら、離す」
「いや、切る」
 そこはひるがえせない。クリスが自傷するなら自分も自傷する、それがいやならクリスは自傷をがまんすればいい、そういう作戦なのに、初めの一回で「じゃあやめる」などとあっさり折れるものか。やめるのはクリスが先だ。そうでなくてはならない。
 しかしそうなると、未来はこのがっちり食い込んだクリスの指を自力で引き剥がさなければならない。これが難儀だった。格闘を始めて数分もないうちに未来は息切れがしてきた。頭がくらくらする。そこまでひどい出血ではないはずだが、このたかが数分で未来は疲労が困憊になりそうだった。
「ああもう!」
 未来はクリスの横腹を膝で蹴り上げた。クリスは呻き声をあげた。それでも手首はしっかりと掴んで離さない。それどころか爪を立ててますます食い込ませた。本人は意識してやっているのかいないのか。まあ、たぶん無我夢中なのだろう、未来は盛大に溜息を吐いた。
(いやいや、まだまだ)
 これくらいの根比べで負けてはいられない。
「クリス、あの、そろそろ本気で、痛いっていうか、つらいっていうか、傷の手当させてほしいかなって」
 すこし退いてみる。
「切らないか」
「切る」
「だめだ」
「そんなこと言われても」
「だめだ、だめだ、おまえはだめだ」
 ぐずぐずと泣きながら「だめ」を繰り返す。
(カッターどこに飛んだんだろ……)
 未来はぐるりと首を回した。クリスに取り上げられたわけではないから、つかみあいになった時、どこかに落ちたはずだ。
(あ、あった)
 手のとどきそうなところにある。当然だが刃は出たままだ。右手をめいっぱい伸ばして、カッターナイフを掴んだ。目線を落として、クリスに気づかれていないか確認する。あいかわらずしゃくりあげて泣いている。気づいているようすはない。
 未来は思わず生唾を飲んだ。数秒後の自分に、今からすることをけして後悔しないように指図すると、決然としてカッターナイフを引き寄せ、勢い自分の右頬を切った。
 さすがに未来は、短い悲鳴をあげた。左手首から圧迫感が消える。
 手首を切った時には飛びかかってきた体が、今度はのけぞり後退して、しりもちをついた。
 未来は飛び跳ねるように立ち上がった。そのままへたりこむと、深呼吸して息を整えた。ちょっと深く切りすぎたかもしれないと思った。
 クリスは近づいてこない。魚みたいに青黒くなった唇を、やはり魚みたいにぱくぱくとうごかしている。喉をふるわせているのが未来にもよくわかった。体全体で言えばむしろ呼吸をうしなったように固まっていた。
 未来は自分のカッターナイフの刃をしまってポケットの中に入れると、クリス用に買って来た同じデザインのカッターナイフを手に取って、それをクリスに掴ませた。
「クリスは、自分の体を傷つけていいし、傷つけなくてもいい。私はそれをとめないたりしないし、口悪く言ったりもしない。でもね」
 未来はそこでいったん言葉を切った。それからクリスの頭を胸に掻き抱いた。クリスの怯えた顔を見たくなかったし、またクリスもそうした顔を見られたくはないだろうと思ったのである。
「したらその分だけ、私も同じことする」
「だめ、だ」
「とめる方法ならさっき言ったでしょ? そうすればいいだけよ」
「できない、できないんだ、あたしは」
「どうして?」
「だって、やめたら、傷をつくることをやめたら、フィーネが……、フィーネが、いなくなっちゃう……」
 そう言ってしまうと、クリスは未来の両腕に縋り、肩に頭をあずけて、大泣きに泣いた。未来が持たせたカッターナイフは畳のほうに滑り落ちた。
 未来はそうしたクリスにかけるべき適切な言葉を探したが、いくら探しても見つからなかった。かけるにふさわしい言葉などあるはずもなかった。
 フィーネがいなくなるとクリスは言ったが、そもそもフィーネはもはやこの世に存在しないのだ。それでもフィーネを求めるクリスに、フィーネはもういないとも、そんなことしなくてもいなくならない、とも言えるはずなかった。
 未来の友達がひとりでないように、クリスの友達もひとりではない。同じクラスにも幾人かいるものである。それでも未来の存在はクリスの友達の中では、ちょっとした特別性を持っていることを、未来は多少なり自覚している。
 だからこれは、根比べだと未来は思った。クリスとの根比べではない。フィーネとの根比べだと思った。未来の腹の底から負けん気というか闘争心というか、とにかくそういう熱く煮えたぎるものが沸き上がってきた。
 クリスがフィーネとの繋がりを証明し実感するために自分の体を傷つけるなら、未来もまた自分の体に傷をつける。手首でも頬でもいくらだって傷つけてやる。鼻でも耳でもいくらだって削いでやる。クリスが小日向未来という友達を思い、その身を傷つけるのをやめるまで、どれほどだってこの体を痛めつけてやる。
 そうまでするのは、クリスへの友情というより責任感である。未来はクリスへの責任がある。
 未来はクリスに手を差し伸ばした。差し伸ばして、助けたのだ。その傷つき汚れた体を拭い、その手をつつんで「友達になりたい」と言ったのだ。クリスは一度は未来の手を振り払ったが、結局は友達になってくれた。だから未来はクリスを助けなければならない。友達のいなかった彼女に友達という存在を与え、フィーネが教えたものとは違う絆を教えた者としての、これは未来の責任だった。
 未来は自分の両腕にかかるクリスの手を剥がした。先刻とは違いクリスの手はあっさりと離れていった。両肩を掴み、寄りかかっている体も同じように引き剥がす。
 クリスはうつむいて泣いている。
「顔あげて、私の顔を見て」
 と未来は言った。クリスの反応がなかったので、もう一度言った。やはり反応がなかったので三度言った。ようやくクリスは顔をあげた。
 クリスの肩に手を置いたまま、
「まだお礼、言ってなかったよね。あの時は、ありがとう」
 クリスの目がほんのわずかに見開かれた。なんの話なのか理解できていないのだろう。未来の言い方はあまりに説明不足だ。
 あの時のように、未来はクリスの左手を両手でつつむようにして取った。
「クリスのおかげで響と仲直りできた」
 と言って、それから、
「まさか、本当にぶっ飛ばしちゃうことになるなんて、思わなかったけど」
 そう言って笑うと、クリスはまたうつむいて、目には涙を溜めて、かすれた声で、
「あたしは、なにも、してない。できなかった。できないんだ」
 と言った。その瞬間に涙がどっと流れた。その涙が未来の左手にこぼれ落ちて血と混ざり合い、傷口にすこししみた。
「でも助けようとしてくれたでしょう? 私が神獣鏡のシンフォギアを着けて、みんなの前に出て来た時――ちゃんと、おぼえてるから」
「でも、あたしは、たすけて、ない」
「そうね、失敗しちゃったものね、クリスは」
 結局未来を助けたのは響である。
「今度は響はなにもしないよ。翼さんも弦十郎さんもね。クリスはどうする?」
 傷のない右手でクリスの頭をわしゃわしゃを掻き乱す。涙が飛散する。
 クリスは泣き声と叫び声でその問いに答えた。なんら答えとして成立していなかったが未来はひとまず満足した。その声には抑えがたい苦しみがある。抜き差しならない状況に対するどうすることもできない無力感と懊悩がある。
 存分に苦しめばいいと未来は思う。苦しみ抜けばいいと思う。
「待ってるから、クリスが私のこと助けてくれるのを」
 未来は言った。
 クリスがフィーネの教えを否定することはないだろう。フィーネの存在を忘れることもないだろう。フィーネと過ごした日々を嫌忌することもないだろう。またそうする必要もないことだろう。
 だが、その傷だらけになってフィーネを求める手が、自身を傷つける行為を停止させて、未来の傷ついた体をいたわり、なぐさめ、手当する日を、未来は気長に待つことにした。
 いずれであってもいい。いつまでも待っていよう。さいわい、若い自分たちには、時間はたっぷりある。寿命はまだずっと先だ。
 逼迫したこの状況下でひどくのんびりと事に構えている自分を、なんとなく未来はおおいに褒めたい気分であったし、まためったうちに貶したい気分でもあった。

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