自宅と研究所を兼ねていた高台の邸の跡地にふたりはやって来た。
突風が起こった。塵があがってクリスの目に入った。こすろうとしたのを未来はとめて、目を開かせてハンカチでそれを取り除いた。
クリスが二年あまりのあいだフィーネと過ごした家は、ルナ・アタックのすこし前に爆発して崩壊して、住居としての役割を消失した。瓦礫はおおかた撤去されている。更地というほどではないが、なにもない場所と言えた。
ぼうぼうに生えた芝生の上になにも敷かずに座って、そこで弁当を食べることにした。
以前はクリスが庭の手入れを任されていた。クリスが来る前は誰がやっていたのかはわからない。庭先だけならと業者を通したことがあったかもしれない。
クリスの知るかぎりでは、フィーネの邸に誰かが訪問したことは一度もなかったと思う。行方不明中の少女を発見されるかもしれないのだ、極力誰も近づけないのが当然だろう。クリスも事を起こすまでは外出を禁じられていた。南米にいた頃はそれが普通だったから不満も疑問もなかった。
フィーネはまだしもクリスに自由を与えていたほうだ。邸から出ることは許されていたから、敷地内の庭や湖で遊ぶことがあった。たまにフィーネが犬や猫を持ち帰ってくることがあったので、名前を付けて一緒に遊んだ。研究室には自由に入ってもいいと言われていたが、へたに触って機械を壊してしまったらと思うと恐ろしくて、一度もひとりでは立ち入らなかった。フィーネに連れて行かれて入ると、たいていそこには行方知れずのペットの死骸が転がっていた。
フィーネが不在の時にもクリスは敷地内から出なかった。それなりの頻度で電話がかかってきたがこれにも出なかった。助けを求めるという発想はついぞ湧かなかった。あの頃誰かに助けを求めようとしていたら、きっとフィーネの名を叫んでいただろう。助けてくれ、フィーネ、と。
ある日、吉日を選んで、と外出許可が出た。仕事のための外出だ。その日はこと座流星群が見られるとかで、任務のついでに星でも楽しんで来いとフィーネは笑った。翼にぶっ飛ばされて仰向けに倒れた時に見た空が、記憶にある唯一の空で、星はあったが横切っていくようなものはなにもなかったと思う。
星のよく見える夜は、フィーネはよく庭にクリスを連れ出して、天文の話を聞かせてくれたが、クリスにはてんで理解できなかった。だから、もうなにも話の内容を思い出すことができない。なにやらちょっと興奮した感じに、口をうごかしつづける、フィーネの姿があるだけだ。
その庭に腰を降ろして、フィーネではない者と昼食をとっている。
「帰る家っていうのも、なんか違うんだ」
弁当を食べながらクリスは言った。
「ろくに出かけたことなかったから、帰ったこともあんまりなくて、帰る時は仕事失敗した時ばっかりだから、怒られたり、ノイズけしかけられたり、帰ってもフィーネはいなくて爆弾が爆発したり」
フィーネは二課の職員でもあったから、毎朝出勤していた。出勤したまま何日も帰って来ないこともあった。クリスが「おかえり」と言えばフィーネは「ただいま」と返した。クリスがなにも言わなければフィーネもなにも言わなかった。生活に会話はほとんどなかった。たまに天文学や人類学のことで堰を切ったようにフィーネは喋り詰めに喋ったが、フィーネが一方的に喋っているだけだから、これも会話とは言えない。
虐待はしばしばあったが性的なものはなかった。フィーネが女だからというのは関係ない。ゲリラ兵には女もいる。クリスをなぶるような趣味のある女は、例外なく日焼けと煤と砂で真っ黒になったいかつい肉体を所有していて、抱き方は乱暴で、男に抱かれるよりクリスの苦痛は激しかった。
なんとなくその話をフィーネにすると、――男勝りを気取る女ほど女しか持たないような滑稽な感情があるものよ、と笑いを飛ばした。フィーネがクリスの体に関心をもつのは、自分の研究と計画に使えるかどうかということだけだった。「抱かれたいなら抱いてあげるわ」とフィーネは言って、数月に一二回くらいセックスをした。それを性的虐待だとはクリスは思っていない。抱かれたいから抱いてもらっただけのことだ。
未来は黙ってクリスの昔話を聞いている。クリスの口振りは乾燥している。セックスだとかレイプだとか、その手の単語をごまかしもせずに使うのが、かえって生々しいと未来には思われた。
「フィーネさん、やさしかった?」
「全然?」
クリスはどうしてそんなことを訊くんだといった目で未来を見た。くだらない質問をしてしまったと未来は反省した。フィーネはやさしくない。マリアはやさしいから本当のフィーネではない。クリスの解釈ではそうなっていると未来は知っていたはずだ。
喋りっぱなしのクリスのほうが弁当を食べ終わるのは早かった。あまり咀嚼せずに飲み込むせいだろうか。未来は咀嚼の回数は多いほうだろう。
未来も食べ終わった。
弁当箱をかたづけて、桟橋のほうに行った。
未来はくつを半分ほど橋から出して、湖を見下ろした。あぶないぞ、とクリスが言う。未来はすこし後ろにさがった。
数匹の魚が桟橋の付近を泳いでいる。
「釣ったことある?」
「釣り道具あったからやってみたけど、釣れたことなかった」
「フィーネさん、釣りするんだ?」
「見たことないな。家にいる時は電話してるか研究室に缶詰か、だいたいそんな感じ」
その研究室には拷問器具がいくつか置かれていて、フィーネはそれらを使ってクリスやクリスのかわいがっていた動物を虐待した。クリスは生かされたが動物はみんな殺された。時々その肉が食卓に並んだ。生理的な嫌悪感で吐き気がしたが、食べなければまた虐待される。食べても食べなくても、クリスはそうした夜には、何度も吐瀉するはめになった。
「ドライブが好きだって言ってたな。愛車がどうとか峠がどうとか延々聞かされて、たまったもんじゃなかった。ガレージは油臭くて、あたしはあんまり近づかなかった」
それはフィーネというより櫻井了子の趣味で、フィーネはそれを継続しただけかもしれない。
「洗車とかさせられなかったの?」
「触らせてもくれなかったよ。願ったり叶ったりだけど」
フィーネはやさしくなかった。やさしくなかったが、趣味の話をしている時の彼女の両目はらんらんと輝いて屈託ない少女のようで、クリスを威圧することも暴力を振うこともなかったから、長話に辟易しながらもクリスはその時間が嫌いではなかった。好きだったか、と問われたら、首をひねってしまうが。
「なあ、帰らないか」
クリスは言った。弦十郎の邸に帰るのである。クリスの声は湿っている。
「そうね」
未来は湖から目線を外した。
クリスは前を歩いている。フィーネの死後、クリスがここを訪れたのは今回が初めてではないかもしれないと未来は思った。
敷地外に出た時、未来は振り返って、かつてクリスとフィーネが暮らした場所の痕跡を見た。ほとんど空と木しか見えない。人工的な要素はわずかしかない。そのわずかに残った桟橋、外壁、柱などは、そっくりフィーネの墓標のような気がした。
途中で本屋に寄って、未来は何冊かの小説を購入した。未来が文庫本コーナーで物色しているあいだ、クリスは新刊コーナーで平積みにされているハードカバー本のうちの一冊を手にして、睨むような目つきで表紙を見ていた。あらかた買いたい本を棚から引っ張りだした未来は、クリスのところに行った。
「その本が欲しいの?」
「べつに」
そう言いながら、クリスの目は表紙に釘付になっている。
未来は表紙をのぞきこんだ。『日本のヴァイオリニストたち‐クラシック百景‐』というタイトルの本で、帯にその演奏家たちの名前が羅列されている。未来はあっと驚いた。その中に、
雪音雅律
の名がある。
「もしかしてお父さんの名前?」
「うん」
クリスは未来を見ないで言った。
「同姓同名の同業者がいないなら、そう」
「読まないの?」
未来は訊いた。クリスは表紙を開こうとしない。
「じゃあ、買う」
なにが「じゃあ」なのか未来にはわからなかった。
家に着いた。
クリスはこたつに寝転んで、両肘を立てて背を反らし、買ったばかりの本を、雪音雅律のところまで飛ばさず、最初のページから順にめくっていった。
「背中悪くするよ」
と未来が言うと、今度は仰向けになって両手を天井に突き出したが、すぐに腕が疲れたのか、またもとの姿勢に戻った。
未来は買った小説を読む気にはなれなかった。
「お父さんのヴァイオリン演奏を収録したCDとか映像は出ていないの?」
それなら図書館に行けばあるかもしれない。
「カセットテープならうちにあったと思う」
聞き慣れない記憶媒体だ。時代遅れのCDよりさらに古いものだったと思う。こちらは図書館にあっただろうか。未来は思い出せない。雅律が私的に録音したものだとしたら可能性は消える。クリスはもう持っていないだろう。知人などに配っていたとしても入手はむずかしいだろう。
「聴いてみたいのか?」
「聴けるならぜひそうしたいけど……」
未来は携帯電話から動画投稿サイトにアクセスして「雪音雅律」で検索してみた。動画があがっているかもしれないと思ったのである。雪音、と打った段階で、検索バーから検索候補が垂れる。「雪音雅律」「雪音夫妻」「雪音ソネット」「雪音 雅律 ソネット」――
未来はわずかに目を見開いた。
雪音クリス
候補の最後にあった。両親はたしかに有名人だが、なぜ無名の娘が検索候補に出てくるのだろう。
「なにしてるんだ?」
「コンサートの動画がないかと思って」
「動画?」
クリスが未来のほうに体を寄せてきた。未来は「雪音雅律」の検索結果のひとつを開いた。
「これ――」
クリスに携帯電話の液晶画面を見せる。
「ちいさくてよく見えない」
と言ったが、動画タイトルを見て、パパの名前だ、と呟いた。
ちょうど演奏が始まった。ピアノとヴァイオリン。ピアノの演奏者は初老の男性だった。投稿者コメントのところに、雪音雅律と共に姓名が列記されている。未来の知らない名だった。
クリスにも心当たりはないのか、たんに興味がないのか、彼には触れなかった。
「この立ってるほうがパパなのか」
画質はあまりよくない。古い映像だから仕方のないことだろう。未来はクリスに画面を向けたまま、拡大表示させた。拡大しても演奏者の顔はわからない。
「そう書いてた」
「へえ」
クリスは嬉しそうな声をもらした。
単曲で四分足らずの動画だった。クリスは半分くらいのところでこたつの上に両腕を組んで、そこに顔を寝かせた。目をつむっている。音だけ聴ければそれでいいらしい。未来は携帯電話をクリスの顔のよこに置き、両手をこたつの下に入れた。
演奏が終わる。
「ほかにもある?」
とクリスは目をつむったまま言った。
「探してみる」
未来はいくつかの関連動画を見まわった。雅律とは関係のない演奏しかないようだった。最初の検索結果に戻る。音楽動画は見当たらない。雪音夫妻の死亡事件のニュース動画がほとんどで、それ以外はさっきの動画を登録した再生リストだけだった。
二ページ目があったのでそちらに飛んでみる。ひとつ、毛色の違うものがあった。雅律とソネットが参加していた難民救済のNGO団体の活動報告動画だった。音量をゼロにして、その動画を開く。
現地の住人とNGOのリーダー格っぽい男性、それに雅律と、そのとなりには長髪の女性がいる。カメラがその女性をフォーカスした。なにか話しているようだったが、内容はわからない。この女性が雅律の妻、クリスの母、ソネットだろうか。
カメラが下がった。ちいさな少女が映った。
「クリス!」
未来は思わず叫んだ。
「ん、なんだ?」
クリスは顔を起こした。
「あ、……や、その」
未来はどうしようか迷った。関連動画はこれと同じこの団体の活動記録だろう。他の動画にもクリスが映っているかもしれない。教えていいのかどうか迷う。
「どうした?」
ごまかせば追及が強くなるだけだ、言うだけ言ってやれ、と未来は口を開いた。
「クリス映ってたけど、見る?」
「なんであたしが映ってるんだ? コンサートなんて出たことないのに」
未来は言葉に詰まった。とてつもなく言いづらかった。
「そっちじゃなくて、NGOのほうの」
クリスのパパとママが殺された地球の裏側の動画だ。
「あっ――」
クリスは瞠目した。
言った未来にも言われたクリスにも、にわかに緊張が走った。
クリスは考え込んだ。数分後、
「見ない」
とクリスは言った。
未来はホッと溜息を吐いた。クリスのためにも自分のためにも、それでいいと思うことにした。
この夜未来は寝つかれなかった。
となりではクリスが眠っている。まだ夢を見ていないのか、見ていても泣くような内容ではないのか、目の周りはきれいだった。
未来はクリスを起こさないように、しずかに布団を抜け、携帯電話を掴み、部屋を出た。
どうしても気になっていることがある。検索候補に「雪音クリス」があったことが頭にひっかかって落ちない。
未来はトイレの中に籠もり、動画サイトを開き、「雪音クリス」で検索した。「クリス」のみに反応したのか、全然関係のない動画がずらりと出てきた。引用符で囲ってもう一度検索する。タイトルのない動画が一つ出てきたが、すでに削除されていた。
"chris yukine"
検索バーから他の候補が垂れ下がる。どれもろくなものではなかった。それらは無視して"chris yukine"で検索する。サムネイルは森林か建物の壁が多い。サムネイルから動画の内容を当てるのはむずかしいだろう。タイトルは01とか06とか数字だけのものもあれば、はっきりと強姦の内容を記しているものもあった。こんなものが消されもせずに残っている。あるいは消されるたびに再投稿しているのか。同じ人間か、悪趣味なべつの人間か。
(やるんじゃなかった)
未来は後悔した。ヒットした動画を片っ端から違法動画として運営に報告して、それが終わると未来はサイトを閉じて、部屋に戻った。
クリスは眠っている。
布団に入り、クリスの瞼のあたりに指を這わせた。指が濡れた。今は泣きやんでいるようだった。クリスはまた夢を見たのだ。マリアの夢か、フィーネの夢か、あるいは両親の夢だ。どんな夢を見たのかは朝起きてから聞くことになっている。
未来は目をつむった。
眠りつけるか不安だったが、ふしぎにすぐに眠ってしまった。
未来は夢を見た。
地元の中学校の教室があった。教室内に囲いができている。このクラスだけでなく違うクラスや学年の生徒もいるかもしれない。とにかくそいつらが囲いを作っている。囲いの中心には響がいて、足もとには花瓶の破片、水、花、そういったものが飛び散っている。その周りから罵声、批声、怒声、それにシャッター音がひっきりなしに鳴っている。なぜか笑声はなかった。あればまだしもマシだったかもしれない。
(なにと比べて?)
未来は怒りを通り越してひどくバカらしい気持ちで、囲いをぶち破った。誰も未来をとめない。音がまったく消えた。未来は響の腕を掴んで立たせた。うつむいていた顔がこちらに向かってもたげられる。
未来は目を覚ました。
「だいじょうぶか?」
クリスが片肘を立てて、こちらをのぞきこんでいる。
「なんか、寝言っつか、うめき声あげてたけど、いやな夢でも見たのか」
「クリス……」
部屋がすこし明るい。
「今、何時?」
「えっと」
クリスは首を回した。
「五時半くらい」
起床時間には早いが、寝なおす気にもなれない。しかし寝言とうめき声とはいったいなんだろう。夢の中で未来は言葉を発しなかったが、肉体はかならずしもそのとおりにはいかないのかもしれない。
未来は上体を起こした。
「私はもう起きるけど、クリスはどうする?」
「あたしも起きるよ。汗びっしょりだぞ、お前。風呂に行ったほうがいい」
言われて未来は気づいた。寝間着の袖でひたいを拭う。なるほど、びっしょりとかいていた。
「クリスも一緒に入る?」
「一緒に入っていいならそうする」
クリスも寝汗がひどかった。ひどい寝汗をかくほど、ふたりともひどい夢を見たらしい。
汗を流すだけでは物足りなかった。体が疲れ切っていた。湯船に浸かってゆっくりしたかった。湯が溜まるまで未来とクリスはお互いの夢の報告をしあった。どちらも十とそこらの人生の中でもっとも悲惨な時代の夢だった。
シャワーで汗を洗い流し、湯船に浸かった。
「切るのやめる気になった?」
未来は訊いた。これも朝の日課と言ってよい。
「まだわからない」
クリスは言った。むりとかできないとか言わなかった。わからない、は何度か聞いたが、あたまに「まだ」と付いたのはこれが初めてだと思う。
未来は夢の内容を話す時に、自分の過去も全部話した。響になにがあったのかも、とりこぼしなく打ち明けた。なにもかも吐き出した。それが多少なりクリスの心境に変化を与えたのかもしれない。クリスがその話をどう感じて、どう影響したのかまではわからない。
「お前がてんからびくともしないのはわかった」
クリスは真面目に言ったのだろうが、未来はなんだかおかしくて笑ってしまった。笑いの意味のわからないクリスは、目をしばたたかせて、首をかしげた。