恩人依存症・六

 風呂からあがって、脱衣所を出ると、翼と鉢合わせした。
「おはようございます」
 未来はあいさつした。
「おはよう」
 女にしては重厚な声が耳に響いてくる。
「おはよ……」
 ややあってクリスも言った。風呂に入っているあいだに眠気が出てきたのか、あくびをした。
「お湯張ってますよ」
「そうか、つかわせてもらおう」
 と翼は言った。この多忙の先輩は今日も仕事だ。
 居間に入って、こたつの電源を点け、もぐりこむ。
「せっかくの冬休みなのにいつも忙しいな、あのひとは。学校がないと仕事詰め込まれるのか」
「今は時期はとくにね」
 大晦日には二本の音楽番組に出演する予定だと聞いている。どちらも夜の生放送で、未成年の翼は早くに出番が来てすぐに解放されるだろうが、帰宅時間を考えると一緒に年越しそばはむずかしいだろう。
 クリスは肘を立てて手の上に顎を乗せ、目をつむっている。たまにがくりと首が落ちる。すぐに位置を戻すが、安定しなかった。
 朝食を終えると、クリスはばたんと仰向けに倒れてすぐに寝息をたてはじめた。腰から上がまるごと出ていたので、未来は自分の肩掛をクリスにかけてやった。
 未来は昨日買って来た小説を読んで時間を過ごした。
 翼も弦十郎も仕事で、邸にはふたりきりだ。が、クリスは眠っているから、ひとりきりという感覚が未来にはある。陸上にしろ読書にしろ、孤独に没入できる時間が未来は好きだった。しばらく近くで眠っている生命体の存在を忘れて、未来は自分のみの世界に思考を沈めた。
 第三章を読み終えたところで、栞を挟んで、いったん本を閉じた。三分の一ほど読み進めたことになる。
 クリスはあの本をどこまで読んだのだろう。未来は居間の部屋の隅に放り投げられたその一冊の本に目をやった。栞紐はどこにも挟まれずに畳に垂れている。未来はクリスがまだ読んでいないだろう雪音雅律の伝を先にかってに読んでしまおうかとちょっと思ったが、思い留まった。その伝にクリスの父がどんな姿で書かれているか知れないし、また知ったところでどうするわけでもないのだ。
 ふっと溜息を吐いて、未来は小説を読む作業に戻った。
 時計の音、こたつや暖房の機動音、紙のこすれる音、クリスの寝息、空気が耳に触れてくるようないかんとも表現しがたいざわついた音、それらはもうまったく未来には聞こえなかった。未来は紙に刷られた文字世界に生きる一九二〇年代のちいさな少女歌劇団の物語に、ふたたび没頭していった。
 いくらかの時間が経過した時、クリスが目を覚ました。未来は気づかない。
 未来が読書をしているのを見て、自分もその気になったクリスは、部屋の隅に放置していた『クラシック百景』なるハードカバー本を、こたつからめいっぱいに伸ばした手で掴み、目次のページを開いた。
 栞を挟むのを忘れていたからどこまで読んだのかわからない。目次で演奏家の名前を見ても、誰それまで読んだのか思い出せなかった。もともとこの連中には興味はないのを、ただなんとなく最初のひとりの伝から読んでいただけのことなので、クリスは雪音雅律の伝の開始ページを確認すると、そこまでページを飛ばした。
 読めない文字や意味のわからない単語がいくつかあったので、自分の部屋に辞典を取り行こうとしてこたつから出て立ち上がった時、未来が顔を上げた。
「起きたのね」
「うん」
「どこ行くの? トイレ?」
「字ぃわかんないのあるから、辞書取りに行く」
「カッターいる?」
「部屋にある」
 クリスが平然と言うのを、未来は肩をゆらして笑った。

 クリスはなかなか戻って来なかった。
 未来はついと視線を上げて壁の時計を見た。辞書を持って戻って来るのにかかる時間をとっくに過ぎている。
 こたつから出て、未来はクリスの部屋に行った。
 心配というものは未来の胸には湧かなかった。慣れたというのとも違う感覚だった。
 部屋の戸を開けると、あぐらをかいて座るクリスの背があった。
 部屋の明かりは点いていない。天気が悪いせいだろうか、うす暗かった。未来は部屋の明かりを点けた。
「辞書見つからないの?」
 未来は戸を閉め、ぴったりと背中を張り付けて、そこに体育座りに座った。ここからではクリスの顔は見えない。クリスの手も見えない。その手に辞書があるのか、そうでないものがあるのか、なにもないのか、未来にはてんで見えない。
 未来はひどく挑戦的な気分になった。奇妙にも昂揚していた。そしておそらくクリスも同じ気分になっているのではないかと思った。パーカーの腹ポケットに右手を突っ込む。つめたい感触に当たった。グリップを握り、スライダーを押し上げた。カチ、とかすかに音を立てた。その音は未来には聞こえたが、クリスはどうか。
「へっ」
 とクリスは笑った。聞こえていたと未来は判断した。反応はそれだけで、背中の裏側のことはわからない。なにが起こっているのか、あるいはなにも起こっていないのか。
 室内に暖房は効いていない。居間よりもずっと寒かった。こたつが恋しくなる。クリスの正面が気になる。
 ――クリス、こっちを向いて。
 と言いたい気持ちが激しく湧き上がってきた。クリスは未来の言うことはだいたい素直に聞く。こっちを向いて、程度のことならあっさりと聞くだろう。たが、未来は言わなかった。理由は自分でもはっきりとはしなかった。
 カチ、とまたすこし刃を押し出す。
 クリスは反応しない。
 未来はクリスに気づかれないように息を落として、カッターナイフから手を離し、ポケットから出した。ゆるく握った手のひとさし指を親指を立てて、腕を伸ばし、そこに左手を添える。それから片目をつむって、ひとさし指をクリスの後頭部に合わせる。ぴんと緊張感が心に張り詰められる。ふしぎな感覚だった。この指先からはなにも出ないのに、知らず生唾を飲み込んだ。
 銃声とはどんなものだろう。パン、か、バン、か。どっちでもいいかと思い、とにかくごくちいさな破裂音をつくってみる。跳ね返りのつもりで肘と手首をすこし曲げ、狙撃を終えた両手を膝の上に乗せた。
 左の掌を天井に向けて、何本も引かれた切傷を指でなぞる。パーカーのポケットのカッターナイフの刃が出しっぱなしなことを思い出した。カチカチ、と音を立てて刃をしまった。この音は聞こえてもいいし聞こえなくてもいいと思った。
 ぐらりとクリスの体が傾いた。
 あっと未来は口の中で叫んだ。
 クリスは一度肩から倒れ込むと、ひっくり返って仰向けになった。
「眠い」
 とクリスは眠たげな声で言った。
 途端に、未来の脳裡で白い光がきらめいた。
 ――背中の裏側が開かれた。
 と未来は思った。
 未来は這うようにクリスに近づいて、仰向けの体を見下ろした。
 脇の下に国語辞典と漢和辞典の二冊が積まれている。その上にカッターナイフが置かれている。刃は出されていない。出したあと引っ込めたのか、そもそも出しもしなかったのかは不明だ。リストカットの形跡はなかった。
「布団敷こうか? それともこたつに戻る?」
「こたつがいい」
 とクリスは言った。未来はクリスが起きるのを手伝った。辞典を脇に抱え、ふらふらと足どりのおぼつかないクリスの背中に手を添えてかるく支えてやる。
 時々クリスは目をつむったまま歩いた。そのつど未来は目を開けさせて、背中を叩いた。
 こたつのある居間に戻った。
 クリスは素早くこたつに入ると座布団を枕にして、目をつむり、さっそく眠り落ちようとした。
「お昼になったら起こすね」
「うん。……」
 と答えた声は、もはや眠りの中にあった。

 昼食にはトマトスパゲッティを作った。
 クリスはがつがつとスパゲッティを口にはこんでいった。翼が愚痴をこぼしていた食事作法はあいかわらず改善されていない。何度手本を見せ、口で言って、仕込んでみても、いっこうに身に付かないと翼は言っていた。
「フィーネさんはなにも言わなかったの、それ」
 未来は食べ散らかされたクリスの皿を指さして言った。
「言われた。いっつもすげえ怒られてた。でもなおんなかった。なんでだろ」
 とクリスは答えた。フィーネは最後までかなり暴力的な躾をやめなかったらしい。翼や弦十郎は最後に手が甘くなってクリスには厳しくできない。それでここまで来ている。
 満腹になると眠気が復活したのか、クリスはあくびをした。
「しばらく寝る? 食器は私がかたづけておくから」
「いや、そこまでは。本のつづき読みたいし」
 ふたりで食器を台所まではこび、かるく水洗いをして食洗機に入れたあと、未来はコップに水を注いで、クリスに渡した。クリスはその水を飲みほした。
「どう」
「ちょっとすっきりした」
 とクリスは言った。
 居間に戻ってそれぞれに本を開いて、読書を再開した。
 未来はまた少女歌劇団の息づく小説世界に没入していった。
 クリスは辞典をよこに開いて、首をひねり、何度も読み比べ、髪を掻きながら、未知の言葉と格闘した。
 数ページめくると、写真が目に映った。モノクロの写真である。雅律とソネットの写真だった。
 昨日見た動画とは違い、この写真ははっきりと顔がわかった。クリスの記憶よりふたりとも若かった。撮影された年月日が付されていたが、クリスが四歳くらいの時のものだった。
「なあ、なあ」
 クリスは写真に目を落としたまま、未来の肩をゆさぶった。
「うん、どうかしたの。読めない字あったの」
「そうじゃなくて、これ」
 クリスは両親の写真を指さした。
「あ、これクリスのお父さんとお母さん?」
「そうだけど、どういうことなんだろ」
 クリスはふしぎそうな顔をしている。そのことが未来にはふしぎだった。写真を見てみたが、おかしいと感じるところはなかった。
「あたし、パパとママの写真持ってない」
 とクリスは言って、腕を組み、首をかしげた。
 ようするにクリスは、一人娘の自分がひとつも所持していない両親に関わるなにがしかを、どこの誰とも知れない赤の他人が、両親の死後何年も経った今でも持っているということが、ふしぎでならないらしかった。
 クリスにとって両親にかかるものは、すくなくともその物質的な意味においては、地球の裏側で彼らが殺された時に、全部残らず破壊し尽くされ消滅し尽くしたもののはずだった。それを地球のどこかに、あるいは日本のどこかに、今も所持している者が存在するのだ。この本にある写真や昨日の動画のように遺っているのだ。
 嬉しい以上にクリスは戸惑った。
 未来は、
「ご両親は有名な方だから」
 と言いかけて、その平凡すぎる言葉に憮然とした。

 今夜も未来はクリスと同じ布団で寝ることになった。翼の語るなにかに衝き動かされるようにして発しつづける°・暴性の爆発を、一度見てみたいと思わないでもなかったが、しかしクリスはもうそういったことをしない気がした。
 二冊の辞典の上に置かれたカッターナイフの意味を、自分はこれから考えて考え抜かなければならないと未来は思った。
 布団にもぐってから、未来はクリスに訊いた。
「まだフィーネさんに会いたい?」
「うん」
 とクリスは湿った声で答えた。
 目線は天井に向けらている。どちらの表情もお互いにはうかがい知れれないが、クリスは泣きそうな顔になっているのではないかと未来は思った。そう思う自分も、感染したみたいに泣きそうな顔になっている気がした。
「そういえばフィーネの写真も持ってないや。一枚持ってるけど、眼鏡かけてるし髪型変だし服着てるし、なんか全然別の人間みたいだから持ってる気しない」
 クリスが弦十郎にねだって譲って貰った写真だった。櫻井了子というその世界ではちょっと名の知れた科学者が、同僚に囲まれて明るく笑っている写真だった。
 彼女の人格を塗り潰してフィーネは復活した。その時点で櫻井了子は死んだはずだった。だが、フィーネが復活したあとも、櫻井了子はすくなくとも世間的には櫻井了子として生きつづけた。そして、その後半生のうちの二年余の時間を、高台の自宅に雪音クリスというひとりの住人を追加して過ごした。
 だが、クリスは櫻井了子など知らない。生きたことも死んだこともクリスの知ったことではない。ましてや同棲していたおぼえもない。あの日、砂のように崩れ去って死んだのはフィーネだ。櫻井了子ではない。クリスはそう信じている。
 しかしながら、ルナ・アタックと呼ばれる事件における二課の殉職者の名はあくまで櫻井了子となっているし、あの高台の土地と邸宅の所有者の名もやはり櫻井了子なのである。あの邸で暮らしていたのは、フィーネではなく櫻井了子ということだ。そしてそれは間違ってはいなかった。実際櫻井了子はそこで暮らしていたのだ。
 それならフィーネは、いったいどこにいたというのか。
 クリスは未来の手を握った。そうせずにはいられなかった。未来がその手を握り返すと、クリスは涙をこぼした。
「クリス……」
 未来は半身を返してクリスの肩を抱いた。
 こういう名の呼び方をするのが自分だけだと未来は知っている。クリスもまた、未来のほかに誰もつかわない呼び方だと理解している。理解したくなくてもそういう現実がよこたわっている。
 寝間着の袖で涙を拭うと、クリスは未来のほうに体を寄せ、胸に顔を沈めた。
「吸ってもいいけどなにもでないよ」
 と未来は言った。その言葉のあとに「ふっ」とちいさな笑声がつづいた。声の質も喋り方も笑い方も、フィーネとは似ても似つかない。ソネットからはもっと遠い。
「そんなことしない」
「もうそんな歳じゃないもんね」
 未来はなんの気もなしに言ったが、クリスはすこし傷ついた。
「良い夢を、クリス」
 と未来が言うと、クリスは顔を上げてひたいを未来の前にさらした。未来はそこにくちづけた。
 ――良い夢を。
 だが、それを見たら、クリスはまた、泣いてしまうのだろう。
 未来はクリスの手を離し、首と敷布団とのあいだのすきまに腕をむりやり通して、両手でクリスを抱きすくめた。
 クリスはすでに泣いていた。

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