年が明けて三が日をいくらか過ぎると、冬期休暇の最終日だった。
未来はクリスを連れて高台の邸に行った。
路傍には前日降った雪が、まだ溶けずに残っていた。邸に近づくごとにその量はすこしずつ増えた。
邸に到着すると、やはりあちらこちらに雪が積もっていた。
「クリスの部屋ってどのあたりにあったの?」
と未来は訊いた。
クリスは黙って歩いて、その場所まで行き、なにもなくなった空間に立ちどまった。
「ここ?」
「の、二階」
クリスは一度空を見上げると、次にうつむき、じっと地面を見つめた。
「三年経った」
クリスは白い息を落とした。
「ここに初めて来てからだいたい三年」
「そう」
三年。未来はその年数を心の中で反芻した。未来が誘ったツヴァイウィングのライブに、響ひとりを行かせて、大怪我負わせてしまったのも三年前のこの頃のことだ。もうあれから三年になるのかと思った。
ツヴァイウィングライブのノイズ襲撃事件も、故雪音夫妻の一人娘であるクリスの失踪事件も、当時は新聞の一面を大々的に飾るくらいのニュースバリューがあった。昨年、二課に保護されてからのクリスの動向は、とくに秘匿の扱いにあるわけではないが、どこといって報じられているわけでもない。今のところクリスの存在は世間的にはほとんど忘却されいる。ライブ事件から生き残った響や他の被害者を寄って集って迫害したことも、もうみんな忘れているだろう。
「明日は始業式ね」
「うん」
「学校、どうするの?」
「まだ決めてない」
とクリスは言った。
復帰するつもりがないのであれば、三学期が始まれば、クリスが家にひとりでいる時間が増える。リストカットは今でもつづいている。未来が目を離しているうちに、やはり切るのである。ただし、今地面を見つめているのと同じように、カッターナイフを握ったまま、それをじっと見つめていることも増えた。
未来はクリスが自分の手首を切る理由は把握しているが、切らない理由はまだわかっていない。切るのをがまんしているふうでもないのだ。ただカッターナイフをじっと見つめて、身じろぎもしない。なにを考えているのか、なにも考えていないのか。
クリスは崖のほうを指さした。
「あっちのはじっこに研究室があった」
「なにもないね」
「あそこが爆発したんだ、派手にさ」
爆発のその真っ直中にクリスはいた。クリスが帰って来た時、フィーネはもうそこにはいなかった。共に暮らした邸を破壊する爆弾を置き土産にして、高台から消えた。
クリスが指さした場所へ歩いていく。未来もついていく。
「ソロモンも、イチイバルも、あそこで起動させたんだ。ネフシュタンも、あそこで貰った」
と歩きながらクリスは言った。
「これとか」
クリスは長い後ろ髪を束ねる髪留めを触った。
「靴とか服とか、あとケープ。サイズ合わなくなったり、季節違ったりして、使わないうちに、邸ごと消えちまった」
かける言葉を見つけられない未来は黙ってあとをついていく。今はコートを羽織っているが、クリスの洋服箪笥の中には白いケープがしまわれている。フィーネから貰ったものと同じか似たデザインのものを買ったのだろうか。
クリスは足をとめた。また地面に目線を落として固定する。
「ずいぶんといろんなもの貰ったよ。貰ったっていうか、持たされた。フィーネのやろうとしてたこと、やるために」
未来はクリスのとなりに立った。
クリスはコートの下からペンダントを取り出して、それを指でいじっている。
「ふかふかのベッドも、豪勢なメシも、あったかい風呂も。でも」
「クリス――」
未来が名を呼んだ瞬間、クリスは力なくその場に崩れ、しりもちをついた。未来が背を支えてやらなかったら、そのまま後ろに倒れて、頭まで地面にぶつけていたかもしれない。
「日本に戻って来た時にさ、もし、フィーネに攫われなかったら、突起物のあずかりになってたらしいんだ。さっき言ったベッドもメシも風呂も、本当なら、全部そこで手に入ってた、三年前に。靴も、服も、ケープも、髪留めも、全部」
クリスの声がふるえだした。
「学校だって、とっくに行ってたんだろうな」
未来に寄りかかってくる重みが増した。
「フィーネから貰ったもので、フィーネでなきゃいけないものなんて、結局なにもなかった」
クリスとフィーネが共に寝起きした邸は、櫻井了子という見知らぬ女がひとりで暮らしていた住居として無惨に吹き飛ばされた。それが事実であって、そこにはクリスもフィーネもいない。
この高台であったすべてが、夢幻の中の出来事として、消えようとしている。二年のあいだに、クリスがフィーネと繋いだ絆が消滅しようとしている。堪えがたい苦しみがクリスの胸に生まれ、認めがたい気持ちが、自分とフィーネとを繋いだ唯一のものに縋らせた。その唯一が「痛み」だった。だが、
「それだって、棄てようとしてるんだ、あたしは」
クリスの表情は見えないが、もしかして笑っているのかもしれないと未来は思った。
「なにも、棄てなくてもいいと思うけど」
未来はそう言った。
「棄てたくない」
と言ったクリスは、体を沈めて、未来に寄りかかった。
未来はクリスのちいさな体を抱き締めた。
クリスは身をよじって、未来の肩にひたいをこすりつけた。
未来はふいに頬につめたいものを感じた。
あたりを見渡すと、雪が降っていた。
「クリス、雪よ」
と未来は言った。
口に出してみると、とたんにこれまでになかったような強烈な寒さを感じた。
腕の中の体がすこしうごいたようだった。肩でこすれるような音がした。クリスが首をうごかす音だった。
「ほんとだ、雪降ってら」
とクリスは言った。
「このままずっとここにいたら、風邪引いちゃうね」
「そしたら、堂々と学校休めるな」
「もう、へんなことたくらんで……」
未来は溜息を吐いた。クリスの手を握って、ひえてかたくなった指をもみほぐし、あたためやろうとしたが、自分の手もたいがいにかじかんで、うまくうごかない。
「やっぱり、やさしいなあ、お前は」
「なに、急に」
クリスの手を口もとまで持ち上げて、息を吹きかける。
「フィーネは、こんなこと、してくれたことないから」
「そう」
未来は内心笑った。雪にうたれてうごかないでいることが、やさしい、と言えるのだろうか。遭難して身うごきがとれなくなっているわけでもないのだ。こんなことをしているひまがあるのなら、とっととクリスを抱え起こして、家に帰ればよい。そうすれば大した手間もなく体をあたためることができるだろう。
が、未来はそうはしなかった。クリスが自分からこの場所を離れようとするまで、未来もまた離れようとこころみるわけにはいかなかった。
雪の量が増えていく。風が吹いている。体にはりついてくる雪は最初はすぐに溶けて消えたが、そのまま残るようになった。
未来はクリスの肩や髪に積った雪を手で払ってやった。払ってもすぐにまた雪が落ちてくる。払う時に付着した雪が刺すようにつめたい。溶けて水になったそれをコートの裾で拭い、数回息を吹きかけた。
「寒いのか」
「そりゃあね」
「あたしも寒い」
クリスはそう言うと、密着している体をさらに押し付け、フードを被った。
まだまだここを離れる気はないようだ。
未来は自分もフードを被った。ひとつ、おおきな息を吐き、気合を入れる。
この雪と風が持つ独特のきびしさは、クリスにとってのフィーネそのものなのかもしれない。未来はふとそんな想像をした。
空一面の雲である。太陽の位置がわからない。コートのポケットの中に携帯電話が入っているが、クリスを抱きかかえる腕をほどいてまで取り出す気にはなれない。ようするに未来は時間の経過をまったく把握できていなかった。
とりあえず腹時計が鳴る気配はない。
そろそろ寒さより痛さのほうを強く感じるようになってきた。せめて手袋を持ってくればよかったと未来は思った。拳を握って指を隠しても大した効果はない。
「クリス、起きてる?」
身じろぎひとつしないクリスが心配になって、未来は声をかけた。
「起きてるよ」
クリスはフードの下の顔を上げて言った。それでも未来には彼女の表情は見えない。今まで聞こえてこなかったクリスの歯を鳴らす音が聞こえてくる。
「手首が痛い」
とクリスは言った。
「私も頬が痛い」
「傷、まだ痛いのか」
クリスは指を伸ばして、未来のもうほとんど見えなくなった頬の傷を触った。
「傷は関係ないけど、こう寒いと」
実際未来は頬が痛かったが、傷のあるほうもないほうも、両方が痛かった。
「寒くないけど、痛い」
とクリスは言った。頬と違って手首は外気にさらされていない。防寒はしっかりされている部分である。クリスが痛いというのは、なにが痛いのだろうか。そう思いつつ、
「暖房の効いてる部屋に戻ればおさまるでしょ」
と未来は言った。
「行きたくないな」
ここでクリスは、初めて帰宅の意思がないことを、はっきりと口にした。ただし、帰りたくない、とはクリスは言わなかった。
「ここにいたいの?」
「うん」
周囲が白く化粧されていく。自分たちの体も白くなっていく。時々体をゆらして、肩や頭に積もった雪を落とした。腕をほどき、手で雪を払う気にも、やはりなれなかったのだ。
いつのまにか風が落ちている。
音もなく降り積もる雪の、深々と、とは、こういうものなのだろうか。
未来はふしぎな感覚にとらわれた。
自分の呼吸音さえ聞こえない気がした。耳にはとどいているが、頭にはとどいてこない感じだった。クリスの呼吸の音はもっと所在不明だ。
ぴたりと抱き寄せている体がいやに遠くに感じられる。まるでなにも抱いていないみたいに、腕にも胸にも、あるはずの感触がない。
「クリス、起きてる?」
未来はまた訊いた。
――起きてる。
と言うかわりに、クリスは体をよじって、自分を抱き締める未来の手に指をひっかけた。その指はひえきっていたが、未来はそのつめたさを振り払う気にはなれなかったし、またさきほどのようにあたためてやる気にもなれなかった。
うごくのが億劫だというのはもちろんあるが、大きくうごけば、その瞬間には、この場に座り込んで寒さを耐えることのほうが、ずっと億劫になってしまうだろう。体をうごかしてあたためて、クリスの手を引いて、一刻も早く家に帰ろうとするに違いなかった。
帰るのはクリスがそう言い出した時だ。未来が言い出した時ではない。そう決めたからには、そうでなくてはならない。
――ああ、それにしても。
寒いし痛いし退屈だと未来は思った。
雪の降る高台にじっとして座っているだけだ。会話もない。なぜこんなことをしているのかと誰かに訊かれても、未来は返答に困っただろう。無意味なことをやっているつもりは全然なかったが、だからといって、自分がなにをしているのか答えようもなかった。あるいは答えとしてちょっとばかり似つかわしい言葉があるとすれば、根比べということになる。クリスではなくフィーネとの、これも未来の意地を懸けた根比べなのだ。
クリスは寒いとも痛いとも言わなくなった。未来も話しかけはしなかった。ただどうにも、クリスが起きているのか、生きているのか、不安になって、時々声をかけた。クリスはそのたびに、未来の手に指をひっかけて、起きていることを伝えた。
クリスには今のこの状態を耐えているという感覚はないだろう。
未来以外の高台のあらゆる存在は、降る雪も降られるおのれも、当たり前のものとして受け入れている。当たり前と感じない未来だけが忍耐の中にある。未来は忍耐している自分というものを意識した。この自覚はうしなってはならないものだった。
そのうち未来は、クリスに声をかけることもしなくなった。
今度はクリスのほうが未来のことを不安に思い、声をかけてくるようになった。未来はいっそうに強く抱き締めることで、それに答えた。声をかけるたびにクリスの体は未来の腕と胸のあいだで押し潰されていった。
「苦し、い」
とクリスに言われて、未来は腕の力をすこし弱めた。
息苦しさから解放されたクリスは、ほうと息を吐いた。
「腹へった」
とクリスは言った。
今回、食べるものはなにも持って来ていない。ここにいつづけて満腹になれる見込みはまずない。
「雪、食えねえかなあ」
「お腹壊すよ」
と未来が言うと、
「フィーネなら、雪でも食べてなさい、って言うとこだ」
クリスはけらけらと笑った。笑いながら体をゆすった。雪が落ちた。
「言われたことあるの?」
クリスはちょっと考えてから、
「ない」
「なにそれ」
「言われたことあった気がしたけど、なかった」
クリスは首をすくめた。
「言いそうな気がしたけど、やっぱ言いそうにないや、あいつ」
「お腹がすいたって言ったら、実際はなんて言われたの?」
「ごはんつくってくれた」
クリスの返答は早かった。ごく浅いところにある記憶だった。
未来の腕の中でクリスはもぞもぞと体をうごかした。急に落ち着きがなくなったと未来は感じた。起きているのか、生きているのか、心配になるほど身じろぎしなかった体が、せわしなくうごいている。
「どうしたの」
「写真」
とだけクリスは言った。服の中から写真を取り出そうとして、悪戦苦闘しているらしかった。手がかじかんでうまく取り出せないのだろう。体勢もよくない。
「あった」
すっかりくしゃくしゃになった写真を赤らんだ指に掴んでいた。ごしごしと腿に押し付けながらしわを伸ばしたあと、クリスは一仕事終わらせた満足感にちょっと笑った。
「了子さん?」
「フィーネだよ」
了子なんてやつは知らない、とクリスは言った。
「でも、了子なんだな、こいつの名前は」
「そうね、その人は、了子さん」
未来もクリスも、それぞれ違う理由で、了子とフィーネを同一人物として繋げることに、自分ではどうしようもない抵抗があった。
拉致したばかりのクリスを邸に置き去りにして、職場で同僚たちと一緒に撮った写真の中で、彼女はかろやかに笑っている。
こんな人間の存在を、クリスはすこしも知らない。いや、すこしは知っている。認めたくないが、クリスはたしかに知っている。ルナ・アタックの時に響に対して、これと同じような笑顔を向けていた。クリスはそれを遠くから見ていた。
「だから、こいつは、フィーネなんだ」
とクリスは言った。
未来はほとんど反射的にクリスのフードの中に手をつっこんだ。
指で頬をなぞり、目頭のあたりを探って、そこに当てると、はたして指が濡れた。
「あたしは、フィーネが自分の何だったら、よかったんだ」
いや、そうじゃあない、と呟いて、
「自分が、フィーネの何だったら、よかったんだ」
と言いなおした。
クリスの自問に、未来はよこから答えられない。
それはこの先クリスが、自力で探し見つけださなければならないことだった。
答えてやれないかわりに、未来はクリスをちからいっぱい抱き締めた。
クリスは写真を持ったまま、その手を未来の背に回して、抱きかえしてきた。未来の肩に頭を乗せると、クリスはやがて全身をふるわせ、嗚咽をあげた。