冬に雪が降る地底は、春は桃や桜が咲き、夏は雨にけぶり、秋には紅葉が散る。原理はわからないが四季の情緒はたしかにある。
旧都では桜の花が盛んらしい。
例年どおり花見会に招かれた水蜜は、これも例年どおりに断わろうとしたが、今年は一輪につよく説得され、しぶしぶ参加することにした。
水蜜にしても一輪の考えにまったく無理解なわけではない。言い分ももっともなことだとわかる。水蜜が不参加を決めこんでも律儀な一輪は花見会に出るだろうし、そこで不在の連れについて難癖をつけられては彼女を困らせることになる、と考えなおしたのだった。ただし、地霊殿との交流をやめるつもりはない。一輪の懸念は杞憂に終わるだろうと楽観しているのは、自分の行動の正しさを信じているからである。
水蜜はいつものように寅丸を抱きかかえて、一輪、雲山とともに、旧都の花見会に顔を出した。
地底に太陽はない。そのために、花見の桜はつねに夜桜の趣がある。黒く染められた幕におびただしい数の灯がともされ、薄紅色の桜が、切り絵みたいに、くっきりとそこに、うかびあがっている。
うつくしいとは感じないが、一個の創造物として、これはこれで立派なものだ、と水蜜は思った。
若い桜の木の下に陣取って、水蜜は息を吐いた。つまらなそうな顔つきを一輪にたしなめられたが、つまらないのだからどうしようもない。
「花はよく咲いているけど、ここには華がないね」
と水蜜は言った。地底の桜は地上のそれのうつくしさにはるかに及ばない。もはや記憶もおぼろげな、かつて自分が一輪や雲山らとともに暮らしていた寺の桜に、水蜜は思いを馳せた。色彩のない風景だった。
「じゃあ団子でも食べてなさい」
と一輪は串団子を水蜜の口につっこんだ。
「色気より食い気よ、ムラサは」
「しっけいだなー……、あ、おいしい」
花より団子。わりきれば、これはたのしいかもしれない。水蜜はせっせと団子を口にはこんだ。
「そうそう、その調子」
と言いながら一輪は杯の中身を空けた。
ぷうんとつよい匂いが水蜜の鼻孔をついた。
「あっ、一輪、お酒飲んでる」
水蜜は杯をとりあげようとしたが、かわされた。
「お酒じゃなくてお湯よ。般若湯」
「言い方変えたって、お酒はお酒じゃない」
水蜜は言葉をぶつけるように言った。
一輪とはもう長いつきあいになるが、水蜜は彼女の平生からはちょっと考えられない不真面目な一面がそろりと姿をあらわすたびに、
――いったい彼女はだれなのだろう。
とひそかに疑い、どう接すればよいのかわからなくなる。
もとより一輪の性格は頑固ではなく、思考には柔軟性がある。それにしたって、酒肉を遠ざけるという白蓮の教えを、地底での生活に適応するためにたやすく棄てる一輪の身の在り方は、一輪の一輪らしからぬ怠惰として水蜜の目に映った。理屈ではない部分で納得できない。
「一輪はどうしてそうなの」
口のうまくない水蜜はこんな訊き方しかできない。
「どうしてと言われたも」
うーんと首をひねる。
「まあ、たぶん生まれつきね。昔のことはあんまり憶えてないけど」
「あかんぼうのときからそんななの?」
「そうそう。ああ、そうだったわ。だから、わたし、いつのまにか妖怪になっていたのね」
と言った一輪は、なにか懐かしくなったのかしみじみと笑った。その笑顔は水蜜でなく雲山にむけられた。
つきあいが長いといっても、むろん水蜜はこれまでのすべての時間を一輪と共有しているわけではない。
水蜜の知らない一輪の時間には、妖怪ではなく人間であった歳月がある。生まれてからの十数年を、一輪は人間として人間の営みのなかですごしていたのだ。かつて水蜜がそうであったように。
雲山と出会い、親しんでゆくうちに、彼女自身も妖怪になった。けっして人間を襲わないふたり組の妖怪は、それでも人間にとって驚異であることに違いなく、ゆく先々で攻撃をうけた。そうして白蓮のもとに流れ着いた。それを「いろいろあった」と笑い話にして語る一輪を、水蜜はひそかに尊敬していたし、また羨んでもいた。
――過去だけはどうにもならない。
現在ある自己を変え、未来をうごかしたところで、際限なく人間を殺しつづけた過去は、いつまでも水蜜の背後にぴたりと張り付いて離れることがない。――過去は変えられないが、そこに付随する意味は変えられる、と水蜜を励ましたのは、だれであったろう。星か、白蓮か、一輪か。思い出せないのは、その言葉が水蜜の胸を淡くかすめてゆくだけの儚さしかもたなかったせいだろう。
水蜜も一輪も元は人間の少女だった。
だから、わたしとあなたは同じである、と一輪は軽々しく言い、水蜜は口をつぐんでなにも言えない。ふたりの感覚には、ずれがある。互いに意図してずらしている。同じであって同じではない。内実はまるで違う。それでも一輪はこう言うのだ。
「同じよ。わたしたちは、同じなのよ」
水蜜は今も素直にうけとめることができないが、ねばりづよくそう言いつづけることで水蜜の救済をこころみた一輪の花のような笑顔は、花よりもうつくしい記憶として水蜜の心にのこっている。暗い海の底からひきあげてくれた、白蓮の手とは別な、もうひとつの手だった。
「あれから何百年経ったのかしら。妖怪は長生きだね、ほんとうに」
そう呟いた水蜜は桜を見あげた。なにかが虚しかった。その虚しさを埋めるように一輪の手をさぐった。それより早く、一輪の手は水蜜の手を握った。
「七百年くらい?」
酒で赤らんだ顔がゆったりとかたむいた。酔眼がこちらを見ている。
水蜜はなにも言わず、杯をとりあげた。今度は簡単に奪えた。一気に飲み干す。
「このお湯まずい……」
水蜜はしかめつらになった。
「飲みつづければ、おいしくなるわ」
と言って、一輪は酒の入った甕のふちを指でたたいた。
「飲む?」
柄杓でひと掬いして、水蜜の鼻先に当ててくる。いじわるくこういう笑い方をするときの一輪は、いつも以上に幼く見える。
「いい」
杯をつきかえした水蜜は、ふと、地霊殿のことを頭に思いうかべた。あの大邸宅の庭に桜はあるのだろうか。たとえ桜でなくても、この時季にはさまざまな花がよく手入れされた庭にうつくしく咲いているはずである。最後にあそこを訪ねたのは半月ほどまえになるが、そのときはまだ庭にあざやかな彩りはなく、ほの暗さに沈んでいた。
水蜜は、はっとした。
――この花見会には、最初から招かれず、参加していない妖怪がいる。
それに気づいたとき、にわかに胸がざわつきはじめた。なにかが頭のなかで目まぐるしくまわっている。
「よし」
水蜜はすっと立ちあがった。
「どうしたの。なに、よしって」
「地霊殿に行ってくる」
「えっ」
「寅丸を、おねがい」
あっけにとられる一輪をおいて、水蜜はひとり地霊殿へ行くために、にぎやかな花見会から離れることにした。
感情の高ぶりが水蜜の足を早めた。すぐにも旧都の喧騒から脱出し、地霊殿の静けさにつつまれたかった。
地底には、地上から追放・封印された妖怪たちであふれかえっている。そこにひとつの秩序を築き、その秩序の頂点にすわった鬼は自分たちの帝国を、
「嫌われ者の妖怪たちの楽園」
と標榜した。この楽園の戸籍名簿に地霊殿の妖怪はひとりも記されていない。地霊殿の主である覚りが鬼に嫌忌されているために、同じ地底妖怪にありながら地霊殿の妖怪だけは、鬼の言う楽園の頭数にいれられなかった。
――鬼に横道がないとは、どの口が言うことか。
と水蜜は唾棄したくなった。
昔、人間は、強大な力をもつ鬼どもの乱暴狼藉を阻むために、策略を用いてこれを討った。その策略は人間の智慧と勇気のきらめきであったが、鬼はそれを横道と罵り、おのれに横道はないと誇る。
――道理に合わない。
この憤りには、当時鬼を征伐した武者たちへの称賛がなかばある。白蓮は彼女の思想に理解のない人間によって魔界に封じ込められたが、といって人間まるごとを恨む気持ちは水蜜にない。
妖怪の卑劣さを憎み、人間の武勇を讃えたくなるのは、人間の血のせいだろうか。ふたたび地霊殿にむけて歩きだした水蜜は、道すがらそんなことを思った。が、今の自分に人間の血は一滴だって流れてはいないのである。
地霊殿に着いた。
水蜜は安堵する自分を感じた。
ゆっくりと門が開く。足もとにさとりのペットの姿が数匹ある。門を開いたのは彼らだ。すっかり馴染みの顔ぶれだった。一言礼を言って、水蜜は通過した。
きれいにととのえられた庭には、花が色彩ゆたかに咲いている。桜はここから見える範囲にはないようだった。
「桜の木は植えていません。梅ならありますが、花は散っていますね」
邸の扉のまえにさとりがいた。わざわざ水蜜を出迎えてくれたのだった。いちはやく水蜜の来訪を報せた者がいたのだろう。
「さとりさん……」
「そういえば、今日は、旧都で花見会でしたか。おや、怒っていますね。めずらしく機嫌がよくない。ともかく、あがってください。ちょうど知人からよい茶葉をいただいたところなので」
あたたかい声だった。
邸内に手招くさとりの細い腕を見たとき、水蜜はなぜかむしょうに泣きたくなった。
いつもの客室ではなく、さとりの私室に案内された。水蜜がこの部屋に入るのはこれが初めてになる。
花や鳥などの模様が織り込まれた絨毯、書物がびっしりと並んだ棚、豪奢な寝台、それに仕事でつかわれているらしい紙束の積まれた机、縦長の窓の外には露台が設けられており、円い卓と背もたれのついた椅子が置かれていた。
「どうぞ、おかけになって」
と言って、さとりは寝台を示した。ここにすわれ、ということだろう。露台に出るのだとばかり思っていた水蜜は、問うような目でさとりを見た。
「お茶は、話し詰めに話して口がかわいてから、持ってこさせましょう」
と、さとりは言った。不得要領のまま水蜜は寝台にすわった。そのとなりにさとりが腰かけた。
「今にも泣きそうな顔をしていますね」
「そんな顔ですか」
水蜜は平手で頬をたたいた。むりやり笑おうとした顔が歪んでいるのが、自分でもよくわかる。
「そんな顔です。そして、もう泣いている」
と、さとりは言った。
「涙にもさまざまある」
胸もとのあたりを浮遊する覚りの目が、じっとこちらを見ている。
――ふしぎな目だ。
と水蜜は思う。さとりはこの赤い皮膚でおおわれた眼球でひとの心を読む。読むだけである。が、この目に見られていると、雁字搦めに絡まって整理のつかない感情が解きほぐされてゆくような気さえしてくる。
「ふしぎなひと」
と、さとりは微笑した。
「あなたが、わたしたちのために怒ったり嘆いたりすることを、よけいなことだ、とは言いません。が、あなたには、沢をはねる魚のようにいつもはつらつとしていてほしいものです」
「魚のようにはつらつと、ですか」
自分はその魚を殺す者だ、と水蜜はおのれを笑った。
「だれだって死魚を食べる者ですよ」
さとりは水蜜の想念とはあえて違うことを言った。――わたしとあなたは同じだ、とかつて一輪が言った理屈を、さとりもまた言ったのだった。それから、
「ああ、でも、仏教徒は生臭を食べないのでしたっけ」
そらとぼけたことを言った。
「ええ、そうです。そのとおりだ……」
水蜜はかなしい気持ちでいっぱいになった。なぜ、こんなにかなしいのか、わからなかった。
さとりの手が水蜜の頬にそっとふれた。
「さとりさん?」
「そのまま」
胸もとの眼球が水蜜の鼻のあたりまで浮上してきた。覚りの目が水蜜をまっすぐにとらえている。そのまま、という言葉におとなしくしたがっていると、しだいに頭がぼんやりとしてきた。さとりは両目をふせている。読心をおこうなう第三の目だけが水蜜を見ている。さとりの唇がうごいた。声はしない。なにをしているのか問おうとして水蜜は自分の唇をうごかしたが、やはり声にならない。さとりの両目がひらいた。その目を見た瞬間、光の洪水に呑み込まれそうな錯覚におちいった。
視界が真っ白になった。
春風が水蜜の胸をとおりすぎていった。
「あっ」
という自分の驚きの声は耳にとどいた。
――桜。
突然、水蜜の脳裡は懐かしい記憶で彩られた。桜だ、これは地上の寺にいたころに見た桜に違いない。それがわかるのである。ほとんど忘れていたものを、どうしたことか今あざやかに思い出している。いちめんにひろがる桜、その下にいる住持、本尊、数多の門徒。……
「みごとな桜景色ですね。風が青く、雲が白い」
と、さとりは言った。
目の前にさとりがいる。
水蜜は何度もまばたきをした。
「あなたは、なにを」
「ちょっとしたまじないです。すこしばかりひきだしをひっぱっただけです」
さとりはあっさり言った。
当人も忘れているような古い記憶をひきあげる術らしい。
おちこんでいる水蜜を元気づけようとしたのだけはすぐにわかった。
「すみません」
と水蜜は謝った。
「あれ、謝罪されるとは思いませんでした。いえ、感謝を期待していたわけではありませんが」
さとりが意外そうに言うものだから、水蜜はなんとなくおかしみを感じた。
「そうですね、ありがとうございます」
と言った水蜜の目頭が熱くなった。拳を握り、目をつむって堪えていたが、堪えきれずについに涙があふれた。水蜜は声をたてずに泣いた。さとりはそのあいだずっと水蜜のそばにあって、なにも言わなかった。水蜜にはその沈黙がありがたかった。
しばらくすると、水蜜はほっと息を吐き、赤くなった目を笑みで染めて、またさとりに礼を言った。
「ようやくおちつきました。みっともないことです」
「しかし、さらにおちこんだ」
さとりは自分のもくろみがうまくいかなかったことに口をとがらせた。
「そのつもりは、ないんですが……」
「励まそうと思ったのですが、かえって消沈させてしまったようです」
「そうかな。……」
水蜜は首をかしげた。じっさい水蜜は元気になったつもりだった。が、さとりがそう言うのなら自分は消沈しているのだろう。
「かもしれません」
と口にしてみると、たしかにさとりの言うとおりのような気がしてきた。さわやかな春の風がとおりぬけていった胸に、今あるのは、渺々たる寂寞である。鮮明によみがえった記憶の華やかさにふれることはできない。それがどうしたってかなしい、と水蜜は思った。
――そのかなしさをかかえて生きていくしかないのか。
だとすれば、なんという虚しい生だろうか。
ふいにちいさな笑い声が聞こえた。
さとりが笑っていた。
「あなたは、やはり、魚ですね」
と、さとりは言った。
「道傍の水溜まりをはねる魚です。あれこれと考えてのたうちまわり、そのうちに呼吸を忘れてしまった。呼吸をしていないのは死んでいるということで、けっきょく思考も死んでいる。なにかを考えているようでなにも考えてない」
「ぶざまですね」
水蜜は自嘲するほかない。
「魚は水を泳ぐものですが、道傍の水溜まりでは、いかにも狭くて浅い」
と、さとりは言った。
あっと水蜜は口のなかで驚いた。
「海に帰れ、と、おっしゃるのですか」
水蜜は眉をひそめた。
「ここ、ここ」
さとりは水蜜の心臓のあたりを指でついた。
水蜜は目線をさげた。
「あなたは心に海をもっている」
と言い、
「海風の薫りと波の音をわたしに教えてくれた。耳目をそばだたせると、いつもそのここちよい音がした。でも今は聞こえない」
さとりは寝台のへりに体重をかけていた水蜜の手首を掴んで自分のほうにひき、ぱっと離した。支えをうしなった水蜜の体がかたむいて寝台の上にたおれた。
「なにをするんです――」
抗議と困惑を一緒くたにした声を水蜜は発した。起きあがろうとするまえに、さとりも寝台にねころがった。さとりは水蜜の体にぴたりとくっつき、胸の近くまで耳をよせると、そのままうごかなくなった。
「なんですか、もう」
「心臓の音がしますね」
「そりゃ、べつに死体じゃないですから……、よく誤解されるけど……」
「ふふ」
さとりは水蜜にくっついたまま、歌でも歌うようにくすくすと笑った。長いことそれはつづいた。
(自分はからかわれているのかな)
水蜜は感情のおきどころに困った。ひきはがすべきかどうか迷った。なんとなくそれはためらわれた。ただ単純にそうしたくないと思う自分がいた。なにか照れくさいような、離れがたいような、そんな気持ちだった。
さっきから鼻にさとりのくせ毛がかかってむずがゆい。甘い匂いがする。かすかに響いてくるさとりの呼吸音が耳にここちよかった。その音に身をひたしているうちに、水蜜は急な睡魔に襲われた。
「眠いんですか」
「いえ」
と言ったものの、眠気はしっかりと水蜜のまぶたにのりかかっている。ここままではほんとうに眠ってしまうかもしれない思った水蜜は、体を起こした。
「あら、残念」
さして残念でもなさそうにさとりは言った。さとりも起きあがった。
「お茶にしましょうか」
「はい」
水蜜は目をこすった。
ごちそうになった茶は南蛮由来の変わったもので、おいしいとかまずいとかでなくて、おもしろい味だと思った。鼻と頭をすうっとぬけてゆくようなさわやかさがあった。
「おもしろい、と言うと、そういえば書庫におもしろいものを見つけたので、お貸しします。返却はいつでもけっこう」
「はあ……」
さとりの突拍子もない提案というか親切に水蜜は生返事で答えた。
その書物三巻を借りて水蜜は地霊殿を辞した。
家にはだれもいなかった。一輪たちは明日の朝まで帰ってこないだろう。毎年そうである。迎えにゆこうか、とも思ったが、借りた書物を酒浸しにされてはかなわない。夕飯はとらず、すぐに寝た。
早朝、雲山が一輪と寅丸を乗せて帰ってきた。眠っている。顔が赤い。だらしなく笑っている。宴会の夢でも見ているのかもしれない。
「ずいぶんとたのしかったみたいだね」
と雲山に笑いかけて、水蜜は一輪のひたいを指ではじいた。
眠りこける一輪の寝息を背にうけながら、水蜜は借りた書物のうちの一巻を手に取って、紐をといた。内容は読まず、最後のところまでひらいてゆく。奥書に、
寅丸星
という記名があった。その名を指でなぞると、胸に熱いものが宿るようだった。地上にのこっている星の書き写した経典が、はるばるこんなところまで流れてきた。水蜜のこの手に到るまで、いったいこの写本はどれほどの人々の手にふれ、読まれ、伝わってきたのだろうか。
水蜜は口もとに笑みをうかべた。
――繋がっている。
それがうれしくてたまらない。
水蜜は写本を巻きなおすと、部屋の隅に置き、その上に布をかぶせてかくし、一輪が起きるのを待った。
ほどなく一輪が目を覚ましので、朝食を用意して一緒に食べ、食後おもむろに写本の一巻を差し出した。
「なに、これ」
「おもしろいもの、と言ってさとりさんが貸してくれた」
中身は教えないで、それだけを言った。
写本をひろげてざっと目をとおしていった一輪は、やがて奥書にある見知った名に気づき、驚きのまじった歓声とともに高々と持ち上げた。
あとにはなごやかな談笑があった。
「あいかわらず惚れ惚れとするくらいきれいな書ねえ……」
一輪はうっとりとしている。
「うん」
と水蜜はうなずいた。
星は書体をくずすのがあまり好きではなく、この写経の書体も一字一画に均整がとれている。したがって星の字は単純に、見やすく、読みやすい。
「わたしの書は、その文字を知ってさえいれば、だれにでもすぐに読めるものでなくてはいけないのです」
と星はよく言っていた。この経がいつごろ写されたものかはわからないが、星は今でもでもあの寅丸星に違いない。文字に呼吸があるとすれば、その息づかいはそのまま星の息づかいにほかならなかった。
水蜜は満面を笑いで染め、猫の寅丸を抱きあげた。おとなしい猫である。体をひっくりかえされ、水蜜の足もとの写経と対面させられても、身じろぎひとつせず、鳴き声ひとつあげない。
「爪立てられたらどうするのよ」
と一輪は水蜜を叱った。
「ははは、でも、おとなしいものだよ。魅入っている。寅丸にもこの書のよさがわかるみたい」
「興味がないだけじゃないの」
「どうかな。なあ、寅丸、どう、この書は。いい書でしょう」
と水蜜は冗談半分に言った。同じ名の虎が書いた写経をつぶらな目に映した猫は、なにを見ているのか、水蜜の腕におさまったまま、じっとしてうごかない。
「紙と硯と墨と筆、あとはなにがいるっけ」
と水蜜は猫を抱えたまま言った。
「筆写するの」
「昔やっていたことを、今やらないでいることもないと思う」
「それもそうね。――やりますか」
一輪は手を拍った。
水蜜はようやく晴れ晴れとした気分になった。写経を貸してくれたさとりに心のなかで感謝した。と同時に、ひとの心を読むという力のふしぎさをあらためて実感した。
さとりは水蜜の記憶にある桜をみごとだと言ってくれた。あの桜は地底では水蜜と一輪と雲山しか知らないはずの風景である。親友のぬえでさえ見たことがない。が、さとりにはそれがわかる。知らないはずの風景を見て、もたないはずの感動をその記憶のもちぬしと共有するのである。
水蜜はどこまでもさとりに好意的である。さとりのほうも水蜜を好いている。そのため、ふたりの関係には他にあるような険しさがなく、さとりが力を行使するときはつねにおだやかな雰囲気のなかで展開された。そういう意味では、水蜜はさとりと接触した地霊殿外部者としては破格の幸運にあった。さとりに敵意をむけられた末に精神を嬲られ破壊された者はすくなくない。
市で道具を揃えた水蜜たちは、その日から写経に明け暮れた。夥しい量の紙と墨を消費し、今後の手本として手もとに置けそうなものが仕上がったのは、それから二月後のことだった。季節は夏にさしかかっていた。
水蜜は、雨のない日を選んで、借りた経典三巻を携え、二月ぶりに地霊殿へ行った。
「今の季節はむし暑くてかないませんね」
涼やかな笑顔が水蜜を出迎えてくれた。
なまぬるい風が、ときおりそよりと吹いて、露台にまでのぼってくる。庭では寅丸がさとりのペットたちとじゃれあっている。それをながめている水蜜の横顔に、
「よい顔をしていますね。はつらつとしている。わたしの好きな顔です」
と声をかけた。
ふりむいた水蜜は、はにかみながら、
「そうでしょうか」
と言った。が、ちかごろ、心にはずみが生じ、以前のような逼塞感が消えたのはたしかである。充実した二月を過ごしたと言える。
「すべて、さとりさんのおかげです」
水蜜は、一度、席をはずし、ふかぶかと頭をさげた。
さとりは苦笑した。水蜜の感謝はいかにもおおげさである。水蜜の心境を変えたのはさとりではない。さとりは、それをこころみて、失敗した。水蜜は書物によって復活したのであり、しかもただの書物ではなく、水蜜の同門の者が筆写した書である。あえて言えば水蜜は友情によって復活した。さとりはそのことを言い、さらに、
「わたしは、いつとも知れず書庫にまぎれこみ、埃をかぶっていた書物を、たまたま見つけたので、あなたに貸しただけですが……」
と言った。
「つまり、さとりさんがいなければ、わたしはのたうちまわる魚のままだった、ということです」
水蜜は間髪いれずに言った。この言葉の勢いに、さとりは思わず瞠目し、それからややあって、
「まあ、そうかもしれません」
そう言うと、カップを持ちあげ、唇を濡らした。
「部屋を散らかすだけの収集癖も、たまには役に立つ」
と独り言のように言った。
「さとりさんは、本を集めるのがお好きなんですね」
「読むために集めていたはずが、書棚に並べるために買い求めることが増えました。それをながめているだけで、けっこうたのしい時間が過ごせるものです。読まず、それきりものも増えた。スペースが足りず、床に積みあげているものも」
自身に呆れはてた調子でさとりは言った。
水蜜はくすりと笑った。書庫に立ち入ったことはないが、かなり悲惨な状態になっているのではあるまいか。想像するとおかしくてかなわない。それに困り呆れているさとりの顔も、やはりおかしみがあった。
「ひとつ、あつかましいお願いをしてもいいですか」
と水蜜は言った。
思考を別なところにとばしていたさとりは、その意識を水蜜の唇のあたりに寄せると、
「あつかましいだなんて、そんなこと。気にいりものは自室にうつしてあるので、書庫にある分は、どうぞ、お好きに――筆写が必要であれば、スペースと道具を用意させます。今は雨が多いから、持って帰って作業するのは難儀でしょう」
と言った。
水蜜はちいさく頭をさげ、カップの茶を飲んだ。
地霊殿の書庫は雑然としている。書庫の清掃を任されているペットはいないのか、整理されていない書物があちこちに散乱していた。それをつらつらとながめた水蜜の胸に感動が灯った。書物の山は宝の山と言ってよい。
水蜜はしばらく地霊殿に逗留することにした。さとりの厚意にめいっぱい甘えることにしたのである。寅丸に一輪宛の走り書きの紙をくくりつけて先に帰らせると、自分は書庫にこもって、ほとんどそこからうごかなくなった。日のあるうち、と表現するのもおかしいかもしれないが、とにかく昼間は読書と筆写に没頭した。夜、眠るときは、書庫のなかで座って眠ることも多い。それを二十日余つづけた。
最初は水蜜のやりたいようにやらせていたさとりも、さすがに見かねて、ある朝、書庫の床に臥して眠っていた水蜜を起こすと、
「呆れた、と言うべきか、感心した、と言うべきか。……」
と鼻をしわくちゃにしながら言った。
水蜜は大熊に抱えられ、書庫から連れ出された。食堂まではこばれた。粥とスープをふるまわれた。
れんげを持つ手のつたなさに、自分の衰弱ぶりを思い知らされる。溜息を吐いた水蜜は、
(これは、駄目だ)
と、かぶりをふった。と同時に、
「ええ、駄目です。てんで駄目です」
と、さとりに叱られた。
「あなたは、なんというか、ほんとうに極端ですね」
と、さとりに言われ、水蜜は首をすくめた。
「ほど、というのがわからないんです。一輪はそういうの得意なんで、まねてみたりするんですが、さっぱりで……」
「でしょうねえ。あれはある種の天才ですから、手本にするには最悪の相手です」
さとりは、水蜜の不器用を慰めるような、慰めないような、そんな言い方をした。
水蜜はますます恐縮した。
「あなたの頑固ぶりも、やはり、ある種の得がたい才能に思われます」
「才能、ですか」
褒められた気はしない。水蜜は肩をおとした。
それを見たさとりは、眉をひそめ、
「ううん、どうもわたしは、ひとを励ますのがうまくない」
と言って、同じように肩をおとした。
「わたしも写経してみようかしら」
さとりが嘆息すると、
「ああ、それはいい、書はいいですよ」
水蜜はあっさり愁眉をひらいて言った。さとりはいっそう眉の皺を濃くした。ついさっきまで、もどかしげに身をよじっていたような水蜜が、さとりのなにげない呟きをひろいあげてこの調子である。
さとりは仏を信じる心をもたず、その教義にも興味はないが、目前にいる人物には大いに興味があり、またその性格も信じるに足ると思っている。
「なるほど、書はいい」
と、さとりは言った。